男二人に女一人の物語って…

何で女と一番親しかった男が遠くに行っちゃって、そうでもない男が残るみたいな感じ何だろう?


『デュラララ!』もそうだし、『暁のヨナ』も同じ。ヨナはスウォンへの未練を断って、ハクに恋したから良いかもしれないけど。『約束のネバーランド』も似たような感じで…これはまだはっきりした描写が無いからわからないけれど。


でも…何か、手っ取り早く確実に幸せになって欲しい…


これだけの記事は申し訳ないので、ついでに母の精神分析を一つ。


彼女はよく、私にこう言ってくる。「ごはんが美味しかったとか、今日は何ごはんにしようとか、どうでもいい*1ツイートにみんないいねしてくれるんだけど…しなくていいんだけどなあ…」


彼女はわざわざ、私にこう言ってくる。*2


つまり、素直に「みんながこんな下らないツイートを評価してくれて嬉しい」と言えばいいものを、わざわざ「嬉しい」の部分を隠して、私に言ってくる。*3


知的好奇心や知能指数が高い*4人はなぜか、とても面倒くさい。これは知識人が体制に反骨的であることとも関係しているから、一概に悪いこととは言えないが…


彼女にそれを聞かされる、しかもその裏に隠された心理が見え隠れしているという状態は、何ともむず痒い。できればやめて欲しいのだが、恐らくやめないだろう。「やめて」と言うつもりもない。言ってもやめないだろうから。


これが本当の、実にどうでもいい「雑記」。

*1:主義主張が無い

*2:人間が人間に何かを言ったり示したりすることには、必ず生物としての社会性に理由がある。心の中で「こんな下らないツイートにいいねしなくていいのに」と言えば済むだけのものを、わざわざ人に言うことには、「嬉しい」という気持ちを感じ取って欲しい、または暗に嬉しいことを示したい、という欲求がある。

*3:嘘だと思った人は、反動形成とか学べば納得できるかもしれない。ただこれは、あまり学問として体系化されていない領域であるから、難解かもしれない。まあ、調べたら考えてみて。わかるかもしれない。

*4:彼女は言語的IQが高い。高校で、国語だけ偏差値70を記録した。

自殺願望

私が経験した日常

多くの「自殺予防」の傲り

意外と厚労省のホームページは良かったが、誤った価値観に基づいていることが殆んどである。

そもそも自殺志願者は自殺予防ホームページを見るのか

これは何とも言えないので、私の経験から言わせて貰う。先ず、見ない。その理由は2つある。1つは、それに助けを求めたところで、どうにもならないと考えているからだ。


自殺は突発的に起きるように思えるかもしれないが、殆んどの場合は長期的な要因が複雑に絡み合っている。そのため、1日や2日自殺予防ホームページを見たところで、どうすることもできないように感じるのだ。実際、私もそういうホームページは見なかった。


もう1つは、そんな無意味なことに割く体力など無いからだ。自殺志願者はそれだけで消耗し切っている。また、睡眠不足や不眠症が重なることもあり、この場合の疲弊は深刻だ。私の場合は睡眠不足が重なった。


これらの根拠から、自殺志願者がそういうホームページを見ることは、無い可能性が高いと言える。よほど信頼している人や、親しい人から薦められない限り、殆んど見ないかもしれない。

自殺未遂未経験者が、自殺を止めることの傲り

自殺未遂を経験したことが無い人が、自殺を止めることを無責任だとは思わない。それは寧ろ、責任ある行為だと思う。だが、自殺未遂を経験した人間とそうでない人には、想像力では埋めることができない、圧倒的な溝があることを忘れてはならない。

うつ病

これは、自殺志願者が患っている可能性が高い病気だ。

https://otonanswer.jp/post/13608/3/

この記事には、うつ病患者にとっての「死にたい」は「からあげ食べたい」に近いことが書いてある。


多くの人には、あまり馴染みが無い感覚だろう。このように、自殺未遂を経験していない人が自殺未遂を経験した人を理解するのは難しい。あまりにも大きな溝があるからだ。

残念な自殺予防ホームページの例

「あなたは一人じゃない」

で?自殺には、全体主義的な文化が影響していることもある。また、根本的な原因は孤立ではない。「あなたは一人じゃない」だのと言えば、自殺志願者が救われるなどと勘違いしている人は、自殺を軽視し過ぎている。そんなことで、どうにかなる問題ではない。*1

「新しいことを始めてみよう」

これも先述した通り、そんな余力はない。また、退屈な日常が自殺の原因だと勘違いしている人も、認識が甘すぎる。確かに、「代わり映えしない日常」とか自殺志願者が言っていることがあるため、勘違いしてしまうのも無理はないとは思うが、やはりそれは症状なのであって、原因ではない。

「今はその悩みが全てであるように感じるかもしれないけど、後になってみれば小さなものだったと思うよ!」

これは本当によく目にする、本当に薄気味悪い暴言だ。2つの点において、何もわかっていない。

理由①「お前の悩みなんて大したものではない」

この言葉と同義だからである。「貧困や紛争に苦しんで、もっと大変な人もいる」と同類だ。この言葉にも問題がある。それは個人の不幸に注目していないことだ。


そんなことを言ったら、貧困層の人たちや紛争地域の人たちの不幸にもグラデーションがあるため、貧困層や紛争に苦しめられている人も「もっと貧しい/危険な地域に住んでいる人もいる」と糾弾されてしまう。*2


こういうことしか言えない人たちには、ある心理が見え隠れしている。「あんたは私より楽でしょ/俺の方が、お前より辛い」そういう心理である。しかしそれをそのまま言っても受け入れられないので、未成熟な社会では通用する誤った論法を持ち出すのだ。*3

理由②「後」なんて知らない

「後になれば~」と言われても、今以上に良くなっている未来を想像することはできなかった。うつ病患者の「未来や結果の楽観視」という、多くの人が備え、フラストレーションを軽減させる機能が上手く働いていない。


だから「明日は明日の風が吹く」とか、「明けない夜はない」なんて言葉を、安易に信じることができない。「明日も、変わらず今日の風が吹いているかもしれない。」「この夜は明けないかもしれない。」そう思うのだ。


また、後などではなく今、死を選びそうなのに、後がどうこう言われても困惑してしまう。明日には死んでいるかもしれない。真面目にそう考えていた。*4

殆んどの人は、それが普通だと思っている

多くの人は、自殺願望の只中にいる時、その危険性に気付いていない。私もそうだったし、恐らく殆んどの人も同じように思う。「自殺願望があるから危ない!どうしよう」なんて悩んでいる人は少数だろう。


私のように、無意識に自殺しそうになる*5こともあれば、から揚げの人のように、無意識に自殺へ思考のベクトルが向くこともある。どちらにせよ、自殺願望を抱えていたことを、客観的に「過去の経験」と捉えることができるようになって初めて、それが危機だったと気付いた。


そもそも、自殺願望がある人に「自殺予防ホームページ」を見て貰うのは難しいだろう。それが山ほどあったとしても、だ。*6自殺を個人が抱える「問題」と定義した時、先ずそれに当事者が気付かない。*7だから、その問題が解決されることは少ない。当然、差別的で不寛容な、全体主義が蔓延る社会は変わらない。

この記事を作成した理由

いつもに増して長ったらしい記事を書いた理由、それはステレオタイプと自殺願望を持つ人*8との間に、あまりにも深い溝があるからだ。嘗ての自殺志願者であり、今は前よりは死から遠くなった私なら、自殺志願者に理解がない社会と、自殺志願者との橋渡しができるかもしれないと考え、この記事を作った。大きな影響力はなくても構わない。この長い記事を最後まで読んでくれたあなたに、「へー、そうなんだー」と思って貰うことができれば、それだけでこの記事を作った意味がある。

*1:『ある世捨て人の物語』“The stranger in the woods”にも書いてあるが、集団そのものが個人を苦しめる原因であることもしばしば。そんな人に向かって「あなたはもう、我々共同体の一員なのです!」と言うのは無神経というか、多数派で加害者であるという自覚を欠いている。それはつまり、「お前は集団に馴染めないはみ出し者だったんだ!俺に矯正して貰ったんだから感謝しろよ」と言っているのと同じである。LGBT矯正手術や皇民化と同じ、おぞましいものだ。「多数派に加わることができて良かったね!」みたいな、寒気がする悪意なのである。

*2:何も言われないのは最も不幸な人だが、何を以て不幸とするのかという基準は千差万別であるから、あるところでは糾弾されている人も、ある基準では最不幸であることがある。そもそも、この論法は破綻しているのだ。

*3:こういう、「自分の方が辛い」みたいなことを言う人には、自殺志願者の苦しみは1ミクロンも理解できないだろう。自殺志願者は、「辛い」という自身のSOSを圧し殺して、「自分より辛い人もたくさんいるんだから、もっと頑張らなければ…」と自分に言い聞かせている人が殆んどだからだ。だから自殺まですることが多い。私もそうだった。

*4:しかも、恐らく自殺というのは「確固たる意志を持って死ぬ!」ではなくて「認識することもできないほど、大きな何かが私を自殺させる」という感覚なのだ。それは唐突に、自身の意志には関係なく起こる。そういう感覚。だから、踏切の降りた線路に吸い寄せられそうになる。だから、いつの間にか首筋にナイフを当てている。

*5:死神に手招きされているように思えた。自殺は「個人の意思による行為」ではなく、「自然現象と同じような、ある一つの現象」であると感じた。

*6:自殺には社会や文化が大きく関わるため、本当はこう定義したくはないが、

*7:部外者が、うるさく議論しているだけだ。

*8:文字数などの都合で自殺志願者とか、自殺願望を抱えた人と入力しているが、本当はこう書きたくはない。これらの言葉を作ったのは、恐らく自殺というものを味わったことがない人間だからだ。特に「自殺志願者」なんて言葉は。本当は「死にたい」んじゃない。「生きたくない」んだ。「消えたい」のである。

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驚いた

英語の模試

私がほんの数分前に解いていたものだ。その文章題に興味深い題を扱ったものがあった。

3000個

これは、平均的な人が1日に見る広告の数だ。何を以て「平均的」とするのかは示されていなかったため、ここでは平均的な年収の、平均寿命を2で割った人とする。

媒体は様々

それはインターネット上に表示されるウェブに限らない。Tシャツ、キャップ、サッカーコートの壁、テレビ、映画館、ビルの壁など様々だ。

広告が助長する差別

広告と男女差別に関するエコーチェンバについては、フェミニズムが再三指摘している通りだ。ここではエコーチェンバを図示することができない*1ので、可能な限り分かりやすく説明する。

①子どもが差別的な広告を見る*2

②差別的な思想やミームに汚染された子どもが大人になり、その一部は広告を作る。

③その広告が世に出る→①へ

広告の怖さ

それは、広告を見た人が意識するかしないかに関わらず、必ず影響を受けることだ。広告はサブリミナル的な効果をもたらす。

これから生まれて来る子どものために

広告は勿論、誰にでも影響を与える。しかし、最も影響を受け易いのは子どもである。意外なことに、子どもは4歳から嘘を吐く。「子どもは嘘を吐かない」は大人が抱く幻想である。だが子どもが何歳から他人の嘘を疑ったり、気付いたりするのかは未だ分かっていない。


その年齢は、大人が想像するより低いかもしれないが、それでも子どもが影響を受け易いのは確かだ。子どもはまだ素直だからだ。年齢を問わず、広告と文化とが相互に影響を与え合う問題について、議論する必要はある。だが、その影響を最も受け易いのは広告を作る世代の人間ではないことを、忘れてはいけない。

*1:このブログをスマホから更新している

*2:社会には差別があるという前提で進む。事実、差別は存在する。

私の居場所

見つからなかった

自殺願望の生存者だから?

私が好んでいるアニメのキャラクター*1ミソジニーが使い、私が好んでいる都市伝説界隈*2には(性)差別主義者*3しかいない。


自殺願望の生存者だからか、ことごとく趣味とそれをを好む人たちの相性が悪い。私が好むものの周りには、大抵私が忌み嫌う人たちがいる。

じゃあ、どうする?*4

先ずは、人権意識が高い人と趣味が合わないことに文句を言う。もう言ってる。そして、捉え方を変えることにした。「どこにも居場所が無い」が、同時に「どこにでも居場所がある」のだと。

*1:アライさん

*2:大抵、キリスト教

*3:sexist

*4:佐野洋子さんの言葉

絵を描く

前は苦しかった

一神教パラダイム

私が高校一年生だった頃の美術で習った、日本と西洋の美術史を思い出した。西洋の絵画には一点透視図法や左右対称など、明確な美的基準がある。そのため、写実的な描写が発達してきた。


しかし、これは葛藤*1を生む原因にもなってしまう。

「写実的に描かなければ」なのに「描けない」。→描かない

理性が崇拝され、写実的に描くのが美しいとされる文化で、社会に属する人間は、あるパラダイムに囚われる。それは「写実的に書かなければならない」という呪縛だ。


しかし、素人が美しい絵を描くことは難しい。しかしその間にも、その呪縛は人を悩ませ続ける。そうして、まだ大して描いてもいないのに筆を置いてしまう。描かなくなる。私がそうだった。

face to reality

美術の授業で自画像を描くという現実に直面して初めて、私を苦しめていたものの正体に気づいた。今では絵を描くのが少し楽になり、前より積極的に観察して描いている。そのおかげか、画力も上がった。

辛いだけの苦しみは要らない

例えば、私がしていた自己精神分析メタ認知は、意味がある苦痛を伴う行為だと考えている。かなり参ってしまうから、オススメはしない。だが、今にも自殺しそうで、かといって何ができるわけでもない、お金も無い、という人が、やむを得ず行うのは構わないと思う。私がそうだったから。*2


しかし、絵を描くことについて私が感じていた苦痛は、積極的な行動を阻害する上に、乗り越えて何か新しい視点が得られるわけではない。そういう苦痛を感じ続ける必要はない。さっさとメタ認知してしまおう。

*1:conflict

*2:たぶん、自己精神分析によって自殺することはない。恐らく実際には、考え詰めて自殺する人は少ない。自殺するとすればそれは、もとからあった自殺願望が原因だろう。自己精神分析が終わらなくても、自分で自分の痛いところを抉る苦しみが続くだけだ。

ゴキブリが肌を伝った

久し振りに悲鳴を上げた

今日、深夜2時頃のことだった

私はキッチンにいた。フライパンで料理を温めるために、コンロの前に立っていた。私の背後から、音もなくそれは現れた。

左腿を這う虫

気付かないうちにそれは左足にまで来ていた。私の腿の裏を、大きな虫が走る。私は悲鳴を上げた。近所の人、すみません。かなりうるさかったと思う。

驚いたこと

それは、私がゴキブリに驚いたことだ。自殺願望に悩まされていた頃の私なら、大して驚かなかったと思う。なぜかそう確信できる。しかし今は驚いた。10分以上、震えが収まらなかった。それだけ、防衛本能(恐怖)が正常に働いているらしい。良かった。

ゴキブリを殺した

私は幸いエスクリマをやっているため、丸めた雑誌をシングルスティックにして、フェンシング的な動きで上から叩き潰した。まだ不安定だから、ウェーブは使わなかった。


長期戦にならなかったのが、不幸中の幸いだった。一撃で仕留めることができなければ、消耗するし、逃げられて怯え続ける可能性もあった。私は今、家族で唯一の男手であるから、ゴキブリを殺す役割を担っているが、正直、かなり怖い。私は臆病だからだ。


ゴキブリが入って来たと思われる穴を塞いで、寝た。

佐伯さん切ない…

「やが君」第7巻を読んだ

いや~良かった。しかし内容に触れるとネタバレになるので、あとがきについて。

「佐伯沙弥香について」

に触れられていた。その時、私は漸く気付いた。彼女もまた、「やがて君に」なった者の一人であることに。

侑と同じく、先輩によって

彼女は侑と同じく、先輩によって同性愛に目覚めた人だ。*1彼女は元々ヘテロセクシュァルだったが、「先輩」に告白されたことによってホモセクシュァルになった。

報われない恋

彼女に告白した先輩は、彼女を裏切った。先輩にその自覚がなくても、結果的にそうなった。先輩は結局、「女どうしっていうのは変だし…」と彼女を振った。その時に彼女が感じた困惑は、妥当なものだろう。「あなたのせいで、私はこうなったのに」

転機

高校の入学式で、彼女は七海に一目惚れした。当初は完璧で隙の無い七海を見ていたが、7巻の時には弱さも含めて好きだと言っている。*2

侑なしには、なかった告白

これも切ない。侑が七海を変えたから、彼女は七海に告白することができた。しかし、侑に出会うまでの七海に強引に告白しても、ただ拒絶されただけだっただろう。まあ、侑のおかげで七海はちゃんと彼女の気持ちに向き合ったから、まだマシかもしれない。

彼女に幸福があらんことを

二度も報われない恋に落ちた彼女だが、その人生に、よき出会いがあることを願って。*3

*1:同性愛という名前がついて文節化されているだけで、本質的には誰かを愛するということに変わりはない。また、性的指向は経験、つまり記憶に大きな影響を受ける。実兄にレイプされて同性愛者になった少女もいる。日本社会は女性恐怖による女性嫌悪によって、同性愛的なつながり=ホモソーシャルを持つ。

*2:すべての人間は、過去の経験によって形成される記憶に影響を受ける。記憶が人格であると言ってもいい。彼女が「強く美しい」七海に一目惚れした理由は、先輩に無責任に振り回された過去の自分を「弱い」存在だと捉えていたから?

*3:私は自分自身の恋愛に尻込みしているだけで、他人の恋愛に共感?することはある。興味深い物語を、外から眺めるように。