空気を読むことをやめた

私にとって、「空気を読む」とは、「空気になる」ことだった。全員の中間をとって、どっち付かずなことをする。それが私にとって、「空気を読む」ことだった。


しかし、それは疲れる。何人居るか、どのような人が居るか等、様々な諸条件によって、「中間」は常に変化する。


少しでも「中間」を外れれば、たちまち「空気」は霧散し、「私」という人間が顔を出してしまう。私には、そのことが何よりも恐ろしく感じられた。


しかし、いつしか疲弊し切って、あることに気付いた。「こんなことをしても、私には何の得もない。」只疲れるだけだと、漸く気付いた。今考えると当然のことだった。


そこからの道のりは長かった。考察に次ぐ考察。考察に次ぐ考察に次ぐ考察。考察に次ぐ考察に次ぐ考察に次ぐ。ひたすら考えて、考えて、考えて、考えて、考えた。


やっとたどり着いたときには、既に3年が過ぎていた。でも、考えてメタ認知して良かったと、今は思う。