ワナゴの辞典 山月記

彼が虎に喰われたのは、「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」のためではない。

確かに、「尊大な自尊心」は獣だった。それは間違いないだろう。しかし、彼が虎に『喰われた』ことには別の理由がある。私はそう考える。


私もまた、ほんの2ヶ月ほど前、虎に喰われて自殺しようとしていた。そんな人間だからこそ、太宰を「針ほどの苦痛を棒のように言うから嫌い」だとか、「自己陶酔型だ」と言い放つ人の考えが、なんかしっくり来ないのだ。


(これは私見だが、太宰を批判する人間は、死を思ったことがない不健康な人に思える。どうして彼のことを理解しない人間が彼のことを批判できようか。)


彼が虎になったのは、果たして本当に「彼が人と交わろうとしなかった」ためだろうか?


私が考えるに、彼が虎に「喰われた」のは、彼の自嘲癖に大きな原因がある。


自嘲は自己防衛的な心理である。


つまり、彼は彼自身に対して、劣等感を抱いていた。更に言えば、「人間失格」の葉三と同じような、原罪意識、「生きていて/生まれてすみません」という意識である。


山月記についての評価の多くは、このことに触れていない。


しかし私はどうしても、李徴を切り捨てられないのだ。「尊大な羞恥心を飼い肥らせた彼が悪いね!皆さんの心には虎がいませんか~?」チャンチャン♪終了。


本当にそれでいいのか?


彼は、自身が虎たる「~な~心」を自覚しながら、結局虎になってしまった。


彼は葉三と同じく人間(=他者に対する)恐怖に苛まれながら、最期まで他人の価値観(孤独は悪いものである。他人と関われ!)の中にいたのだ。


それが問題の本質であると、私は考える。


彼は、「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」を抱えたまま生きることができたと、私は考える。何も、自己責任論を弄しようとしているのではない。「~な~心が虎なのだ!」とそれを忌避するのではなく、うまくやって行く方法があったのではないか?と、私は思う。


彼は、メタ認知する必要があった。他でもない彼自身を。ゲシュタルトセラピーでも知られているように、心は「自覚するだけ」で癒される。李徴は忌避してしまった。