破滅へと至る路

久々の長い考察

たぶん、ものすごく長くなる。この考察は多くの人に当てはまるかもしれない。しかし同時に、自分自身の問題でもある。まあ、このブログにある記事のすべては私のために書いたものだ。「お裾分け」のような感覚で公開している。


正直、アクセス数とかはどうでもいい。それは更新が不定期であることからも、極端に長い、また極端に短い記事があることからもわかるだろう。これは、「万人がこうなんだ」と主張するものではなく、少なくとも私はこう考えるという、一つの見解である。それをご理解頂きたい。*1

①同一性*2への信仰

同一性とは、その人が何であるかを決定付けるものであり、同時にその人がその人であるが故に表れるものでもある。つまり、その人がその人である瞬間に、その人と同時に『すでに存在している』ものである。意識する/しない、表出の有無に関わらず、既にあるものなのだ。しかし、その本来の意味が損なわれているように感じる。

前近代、現代と同一性

前近代は絶対王政が敷かれ、個人の同一性は軽視されていたが、現代では民主化が進み、個人の同一性は尊重*3されている、ことになっている。だが、私は現代よりも近代の方が、よほど自由だったと考えている。


何も、「前近代に戻ろう」と言っているのではない。独裁的という意味では日本は前近代的である。安倍がいるから、戻すまでもなく前近代だ。そうではなくて、少なくとも個人の同一性について言えば、前近代の方が自由だった。

前近代と同一性

生まれた瞬間から、その人がどう振る舞うのかは決まっている。生まれた家に、更に正確に言えば家の身分に従って振る舞えばいいのだ。つまり同一性とは「すでに決まって」おり、悩むような事柄ではない。その分、多少は自由度が高かったように思う。


確かに、身分の拘束はあっただろう。日本では戦後時代や江戸時代前期などで上流階級の人間に生意気な口をきけば、その人の肩身は狭くなる。しかしよほどのことをしなければ、困ることは無い。その程度は生活の中で自然と身に付くことだ。


逆に言えば、「それ以外」の領域―同一性と呼ばれるもの―は自由になるのだ。特に仲間内でなら、自由に議論をたたかわせることができただろう。

現代と同一性

現代において、同一性とは『表出させなければ、存在すらしないもの』となってしまった。日本においては、部落共同体意識とアメリカから輸入された同一性信仰とが混ざって、半分は身分階級制、半分は自由、みたいな感じになったが、所謂「スクールカースト」等の上に成立する同一性は張りぼてでしかない。この国で認められる同一性など、気休め程度のものだ。脆く危うい土地の上で、ままごとをしているようなものだ。


だから、たぶん日本の人は本当に窮屈な空間で生きていると思う。「階級」は予め決まっている。その上で申し訳程度の同一性を主張しなければならない。*4

②自己の同一性への不安

所謂、「アイデンティティークライシス」とかいうやつのことだ。ただ、日常的にそれを経験することは少ないだろう。これはあくまでも、軽度なもののことを言う。*5ヒエラルキーの中で、許される程度の同一性を主張する。それは大きなフラストレーションを伴う行為だ。また、同一性が身分にかなっているか否か、不安にもなる。


フラストレーションや不安の範囲がある閾値を越えると、人間は大きな、そして証明不可能なものに縋ろうとする。その対象は神だったり、天皇だったり、イキり文化だったりする。いずれにせよ、それはその人が持つステレオタイプやバイアスに依って形成される。

③バイアスを強化し、それに依存する

カトリックの家に生まれた人なら、その人の同一性を依拠する対象はイエスかもしれない。戦後ではなく今の保守的な家に生まれた人なら、それは国家神道天皇かもしれない。2ちゃんねるにばかりアクセスするような男なら、彼はイキり文化に依存するかもしれない。


依存する対象はいくらでもある。どこにでもある。無いならつくり出すだろう。ある意味では、存在しない何かの力に身を委ねている時点で、偶像崇拝にも似たものである。

バイアスを強化し、ステレオタイプを偏重し、それを固定する

カーストとか同一性とが、気になることが多すぎて疲れた時、どうすれば楽になれるか?答えは簡単だ。「人の真似をする」、ただそれだけ。神格化したものに依存するという方法は、流行っているらしい。姑息だが容易であるからだろう。


特に、人は余裕が無い時に神に縋る。進化論を信仰する生物学者無神論者でも、砲弾が飛び交う最前線で生きる兵士に、神を信じない者は無い。「日本国」という、土地で線引きされた偶像を崇拝している人があまりにも多いのは、アベノミクスが失敗して経済的に、自民党によって文化的に、多くの国民に余裕が無い証拠だ。*6*7


生活にも、そして精神的にも切羽詰まっているからこそ、バイアスはより強化され、固定される。日本人のバイアスは今、かなり危険な領域まで強化されているだろう。当たり前なことを当たり前に認識している人が、あまりに少ない。殆んど居ないと言っても過言ではない。

④強化したバイアスによって、時間が汚染される*8

所謂、「時間汚染」である。はっきり言って、③から④への過程が最もよくわからない。まあ、ここは「なんとなく」でクリアーする。時間に対する焦りが不安や緊張から生まれるのは、わかると思う。バイアスは、そういう不安や緊張を増強することがある。バイアスは間接的に時間を汚染している。

時間が汚染されているとき

時間をとても短く、または長く感じる。長い時間も、有意義なものではなく、「ただただ長い」だけの時間。私は自殺未遂が酷かった時などにこれを経験したことがある。数ヶ月があっという間に流れた。「流れた」と表現することしかできない。本当に一瞬だった。しかしその時間の只中にいるときは、とてもとても長く感じた。この時間は永遠に終わらないかもしれないとさえ思った。

⑤終わりの見えない時間の中で、終わりを求める

自殺というのは、積極的な行動ではない。むしろ、やむを得ない行動である。遮断機が降りた線路の前で、踏み切りのサイレンが鳴る中、電車に吸い寄せられる。特急列車が通過するとき、ホームから飛び降りそうになる。階段を上っているとき、窓から飛び降りる自分の姿が浮かぶ…そういう感じ。


自ら意図して死のうとしているのではなく、体の方が自然に動く。私は幸か不幸か、今も生きている。何か一つでも違ったら、私は死んでいただろう。

「死にたいなら死ねばいい。」

よく、こう言う人がいる。しかしこの阿呆は何もわかっていない。何も知らない。わかるつもりも、知るつもりも無いだろう。まあ、無理もない。うつ病は実際に体験した人でないと、その辛さがわからないらしい。自殺念慮もよく似ている。正に、虎になった男のよう。

「ああ、全く、どんなに、恐ろしく、哀しく、切なく思っているだろう!己が人間だった記憶のなくなることを。この気持は誰にも分からない。誰にも分からない。己と同じ身の上に成った者でなければ。」 中島敦山月記】 李徴

出口の見えない絶望

基本的に、希死念慮自殺念慮、または自殺願望を抱え、不条理な土地で死んだように生きる人間は、「死にたい」状態がずーーーーーーーーーーーーっと続く。「消えたい」と言う方がいいかもしれない。とにかく、自分の存在を消し去ってしまいたい状態が半永久的に続く。


本当に、終わりは見えない。見えないから、終わりは無いように思えてくる。

*1:社会的なミームが個人に与える影響を認識していない、「子の問題はすべて親の責任だ」とでも言うような、どっちもどっち論者が、「ネタだから本気にするな」だのとイキり文化を正当化するのと同じようで嫌だから、一応断っておく。私は、この記事があなたに全く影響を与えないとは考えていない。少なくとも、主語を大きくして言っているのではないということを、把握しておいて貰いたい。

*2:identityと呼ばれることもある。「個性」とは似て非なるものである。ここでは同一性として扱う。

*3:私はこの言葉を嫌悪しているが、皮肉を込めて使う。

*4:所謂「イメチェン」をする人がいるから、階級は固定されていないと勘違いする人もいるだろう。しかし本当に底辺の人間は、イメチェンしようなどと考えることすら無い。イメチェンしようか迷っている時点で、その人はそれなりの階級にあるのだ。

*5:軽度だが、深刻である。

*6:「私はこの国のために頑張っている。障害者は死んでも構わない。」と言うとんでもない人がいることがそれを示している。本当に今の日本は、戦前のように危うく、脆く、窮屈だ。また、残念ながらとんでもない人の方が多数派らしい。こうして多様性が失われて行き、この国は滅びるのだろう。

*7:少なくとも日本人は、南からやって来た琉球民族(→アイヌ民族に繋がる)とユーラシア大陸から来た渡来人、そして先住民族でできている。だから、遺伝的に100%純系の日本人は存在しない。にもかかわらず、「在日は国へ帰れ」と言う人がいる。単一民族神話の成れの果てだ。

*8:時間汚染とは、未来のことが気になっている状態など、「今」に注意力が集中していない時のこと。