最近考えること

自殺志願者や、希死念慮を抱えた人は、社会から隔絶されることを望んでいる場合が多い。


また、アドラー心理学で言う「無能の証明」みたいな感じになっていることが多い。


なら、無理に私が、「緩い繋がり」だの、「自己精神分析」だのを奨めるのは強引ではないか?


ゆったりと流れる、悠久な時間と、その存在が脅かされることの無い安全な場所、有機栽培の食物、全身弛緩法、ゲシュタルトセラピー等を提供するのが先ではないか?


「皆と同じように」学校に行く。「皆と同じように」進学する。「皆と同じように」就職する。


その画一的なレールに乗ることに違和感を覚えたり、レールから脱出したりする人は、独自の感性を、独自の視点を、哲学を持っている。


否、「皆」とは違って、「嘗ては、すべての人間が持っていたもの」を、大事にして生きている、と言っても良い。


多くの人が棄ててしまった、あるいは圧し殺し、あるいは無視したモヤモヤを、葛藤を、「平等と自由と多様性」を感知する感覚器官を、まだ持っている。


そういう人が死んでしまうのは、勿体ない。


私は「生産性」という言葉が嫌いだ。大嫌いだ。この世から消えてしまえば良いと考えている。


しかし、死にたい人が社会に与えた恩恵は、やがて戻ってくるだろう。


この国の、破壊された平等と自由と多様性、一人の人間と、一人の人間として接すること、分断された緩い繋がり、それらを取り戻すかもしれない。


私は、TED TALKS の、Rutger Bregmanの、貧困は人格の欠如ではなく金銭の欠如である が大好きだ。


彼が主張したように、「もし、ベーシックインカムが導入されたら、どれだけの若い才能が開花することでしょう。我々は、ベーシックインカムをしないことによって、損をしているのです。」


(うろ覚え引用。誤植の可能性大。)


私の考えとベーシックインカムは少し違うが、「精神的平穏を提供する」点では同じだ。


私は、この取り組みを通して、この世界に平和(広義の平和=精神的平穏)をもたらしたい。


いつになるかはわからないけれど、破壊された平和を取り戻せるなら、それ以上の幸福はない。


最後に、Rutger Bregmanのスピーチよろしく、この言葉で締める。


「自殺は、当事者の精神の欠陥ではなく、社会の精神的平穏の欠陥である。」