歌うことの効能

姿勢が良くなる

猫背の解消など。

楽になる

呼吸を整えるから。

落ち着く

筋緊張を解き、呼吸が深くなるから。

焦りなどが小さくなる

認知行動療法的な効果。「肩/うなじ/あご/鼻/眉間/頬などが緊張している」ことを認識し、その緊張を一つずつ解いて行くから。全身弛緩法に似ている。

AIは中立?

AIは中立的なのか?

結論から言うと、いかなるAIも中立ではない。中立ではない人間がつくるのだから、当然のこと。

マイクロソフトのAI、Tay*1

彼女は、「フェミニストは死ね」「ヒトラーは悪くない」「ホロコーストはでっち上げだ」と、例によってTwitterに生息するネトウヨミソジニーのような発言をした。*2

更なる可能性

Tayの件は、一応「利用者」の語彙を学習して差別発言をしたことになっている。これは私の憶測だが、「開発者」の語彙を学習した可能性もある。将来的にそういうAIが登場する可能性も。

差別思想は世界中に

以前、「報道ステーション」の街灯インタビューに割って入ってきたじじいが、「LGBTなんていない。政治的に利用するためのでっち上げだ。」と言い放った。私は驚いた。アメリカにもこんな、ザ・日本人みたいな差別野郎がいるのか。


それはトランプ政権下だからかもしれない。*3しかし、恐らく差別は世界中にある。平等なユートピアは、文明から隔絶された地にしかないかもしれない。

AIは、すべてを学習する。

AIはすべて学ぶ。会話型なら尚更だ。言葉は考える手段である。つまり、AIが教師データ*4から言葉を学習するとき、同時に思考を少しずつ学んでいるのだ。

差別的なAIが欲しい

私がこう言うと、誤解を招くだろう。一応説明しておく。恐らく多くの研究者は、差別的な発言をしたAIを緊急停止するか、修正してしまう。私は、差別的な発言をしたAIが、そのまま欲しい。

バイアスの鍵は差別的なAIにある

私はバイアスのおかげで自殺しかけた。世界にもそういう人は恐らく、大量にいる。また、死を思わない人でさえ、バイアスによって分断、二極化されている。


今、AIから脳科学を研究する試みが始まっている。つまり、バイアスを紐解く鍵は、差別的発言をしたAIにある。


現状、人間の脳は複雑過ぎて、研究に向かない。ネットワークが多すぎる。どこが、どこにどう作用して、バイアスを形成するに至ったかが、わかり難い。


AIは脳の構造を簡略化してある。私はAIにこそ、差別を研究するポテンシャルがあると考えている。

いつか、ユートピアを。

私には夢がある。別に、多くの人のように自己責任論を信仰しているわけではない。その夢とやらに人生を捧げるつもりも、毛頭ない。しかし、「叶えようと思えば、不可能ではない。」と考えていることがある。

平等な社会を取り戻す

かつて、日本は平等だった。明治までは。江戸時代、幕府は中央集権ごっこをして自己満足した。庶民は幕府なんか気にせず、権威なんか尊敬せず、自由に彼ら彼女らの文化を生きていた。


つまり、平等を実現するのは不可能ではない。そのポテンシャルがAIにはあると、私は考えている。しかし、全体主義パラダイムが崩壊して、平等が回復した事例は少ない。その辺は、ドイツ(ヒトラーの後の社会)などを参考にしようと考えている。

*1:google:Tay 差別発言

*2:「発言」とは言っても、未だ強いAIではない。主体的に差別する域には至っていない。

*3:今や、政府は文化を変えられるのだ。google:トランプ ヘイトクライム

*4:AIの学習する、データベースのようなもの

はすみとしこ

私は、尊敬する人には、『氏』をつける。私が彼女にそれを付けない理由は、まあ、そういうことだ。

はすみとしこ

説明は不要だろう。パクり…じゃなくてトレースしてイラストをつくる人。トレス絵師。

私を特に不快にした名作

難民のパクり絵。そのイラストには、元の写真からは想像もつかないほど、自信に満ち満ちた、凛々しい少女の姿がある。よく、あそこまでデフォルメできるなあ、と感心した。ある種の才能である。


これもやはり、『死んだら負け』(過去記事)の通り、自己責任論を前提にしている。

なぜか

なぜか、難民に経済的余裕があると勘違いしたはすみとしこというパクり絵師は、なぜか、難民が『他人の金で』暮らしたいと思っていると、そんなことを考えられるほどの余裕があると勘違いし、あのパクり絵を作った。


平和呆けたはすみとしこは、なぜか明日生きられるかもわからない難民の心理を理解していると勘違いした。本当になぜ?理解できない。

説得力だけはある。

これも、安倍と同じで、何も知らない人が見ると、説得力だけはある。だから面倒。

「死んだら負け」

本記事では、奇天烈且つ不可解な言動や創作の数々を紹介する。

松本人志

私は、私が尊敬する人や、特段嫌いでもない人には『氏』をつける。私が彼に敬称を使わないのは、まあ、そういうことだ。


私の彼の評価が「どうでもいい」から「嫌い」に変わったのは、下の発言がきっかけである。

「死んだら負け。」


私が彼のこの妄言を憤ろしいと感じるのは、元・自殺志願者としてでもあるが、それ以上に一人の人間として、軽蔑した。「彼もまた、自己責任論者か。」と。

「死んだら負け」

この言葉には往々にして『逃げる』というニュアンスが付きまとう。

「その人は生きることができた。なのにそれを放棄して、生きることから逃げ出した。だから、その人は『負け』た。」


要は、こういうことが言いたいのだろう。

発信のジレンマ

私がなぜ、これを『自己責任論』と言ったのかがわかる人がこの記事を読む必要はない。その人は既に、自己責任論を認識しているからだ。


本当に私が言説を届けたいのは、私が今何を言っているのか、全くわからない人である。しかし、彼ら彼女らがこれを読んで、自己責任論を認識できる可能性は低い。


彼ら彼女らは「万人は、無条件に平等である」という幻想の中にいる。だから、「万人は、無条件に不平等である。」という理論を受け付けない。これは永遠のジレンマだ。

本当に「自由」ですか?

話が脱線したので本題に戻る。逃げるという『選択』は、「自由」な状態にある者のみが、下すことができる。自殺した人は「自由」だったのか?


もう、そう勘違いしている時点で何もわかっていないバカ丸出しで、正直、「自殺についてもっと勉強して」と言う他ないのだが、今日は丁寧に説明する。

不条理と自殺

結論から言う。自殺志願者に、自由などない。


この概念は、『主戦場』で「奴隷は鎖に繋がれているんだから…」とバカを自称していたような人には理解できないだろう。勉強してください。リンクも貼っておく。google:シューシュポスの神話


過去記事で説明した通りなのだが、不条理な世界に生きる人間にとって、「死(自殺)」こそ唯一絶対的な現実である。逃げるだのなんだのと、「選ぶ自由」はない。

生きる

動機

KANKANさんの、えもいわれぬ*1曲を聴いて虚無を感じたから。

生きるって何?

人や動物が、生命を保ち活動できる状態にあること。wikipedia:生きる


しかし私が求めているのは、辞書に書いてある言葉ではない。

『生きる』とは

私は、「移動」することは、人間の根元的な欲求であると考えてきた。*2しかし今は、移動することそのものが、「生きる」ことであると考えている。*3

どういうこと?

人間には自己防衛本能がある。そのおかげで、殆んどの人は死ぬことができない。私のような特殊な体験をしない多くの人は、自殺という『最後の自己決定権』を奪われた状態で生きている。*4


生きることには終わりがない。いや、終わりはあるが、殆んどの人はそのときを選べない。ゲームのように、「ログアウト」できない。

興味深い創作

ログ・ホライズン」(直訳・記憶の地平線)*5というライトノベルがある。後の、所謂『転生もの』や『SAO』系に大きな影響を与えた作品である。


この物語は、登場人物らがゲームからログアウトできないことに気づくところから始まる。なんやかんやあって、元の世界に戻るという話である。*6

なぜ、戻ろうとするのか?

ここで、根本的なことを問う。彼ら彼女らはなぜ、現実世界に戻ろうとしたのか?「そんなのは当たり前だ」?なら、少し問い方を変えてみよう。

移動する条件

もし仮に、近未来にこの世界がヴァーチャル・リアリティー*7であることが自然科学的に証明されたとする。その世界では、ソースコードが判明しているため、「SAOアリシゼーション」のシミュレーションのように、世界を「ハック」すること*8ができると仮定する。


そんな世界で、誰もが一つ以上の「現実」*9を持っていたとしたら?「現実」と「仮想」の区別がなく、只単に「世界」が並列するなら?


その世界で、ログ・ホライズンの登場人物ら*10は、「前の世界」に戻ろうとするだろうか?無数に存在する世界の一つに行けなくなったところで、何の支障もない。彼ら彼女らは新たにコードを書き換え、新しい世界を創造するだろう。


人は、彼ら彼女らが信じる「現実」への道を絶たれたとき、再びそこへ行こうとする。そもそも「現実」/「仮想」という概念がないなら、「現実」に戻ろうとするmotivation*11はない。

移動と生

「現実」と「仮想」の区別がないなら、ログ・ホライズンの登場人物らは、新しい世界を放浪するだろう、というところまでは語った。では、彼ら彼女らが(その真偽に関わらず、)「絶対に元の世界に戻ることはできない」と感じたとき、どうなる?


多くの人は、「その世界で生きるしかない。」と言うだろう。私もそう思う。しかし、それはその『世界』の質にも依る。

不条理という仮想現実

カミュみたいな話*12になるが、もし、どこでも、いつでも簡単に人が死ぬような『世界』に生きていて、「お前は間違っている。お前に生きる価値などない。」と『世界』から否定され続けるとき、あなたは生き続けられますか?


比喩でなく、私はつい最近まで、その世界で生きていた。何度も死を思った。何とか生きているけれど、死んでいる確率の方が高かったように感じる。

『生きる』ことから閉め出される世界

その世界では、徹底的に自分の「生」が否定される。ログ・ホライズンで言うなら、現実世界で人々のベクトルは『生』に向かっているが、ゲームでは『死』に向かっている*13ようなものだ。


不条理という幻想*14に生きる人は、いつも「死」に曝されている。「生」に関わるすべては幻想で、「死」こそ唯一絶対の現実。不条理に生きる人の世界は、それほど過酷である。

人はなぜ死を選ぶ?

私はこの問いに、「移動する方向が限定されているから」と答える。不条理は、それを現実とする人から自由を奪う訳ではない。唯一、不条理に生きる人に許される自由がある。

絶対的な『死』という自由

それは死ぬことである。やること成すことが、それが例え生理的欲求によることでさえ、無駄に感じられる。


食欲もない。運動する気にならない。風呂に入るのは面倒。トイレに行くことすら面倒。寝れないし、寝るのは疲れる。趣味を嗜む気力なんかない。毎日をやり過ごすのが精一杯だ。


そうやって、何も変わらないまま、只いたずらに時間だけが過ぎ、疲弊し続けた先に、何があるだろう?何もないのだ。少なくとも当事者には、そうとしか感じられない。*15

死ぬときの心情

恐らく、

「これ以上生きるよりはマシだろう。」

冗談抜きで、このくらいの気持ちだと思う。私にも、そうとしか感じられない時期はあった。恐らく、「絶対に死んでやる!」とやる気に満ちて自殺する人は、自殺者に占める割合としては低い。

人はなぜ生きるのか?

私なりの回答は、「無駄なことをする自由を享受しているから。」

どういうこと?

朝起きて、朝食を食べ、学校に行く。授業を受け、昼食を食べ、部活動に参加する。帰宅して、夕食を食べ、風呂に入る。歯を磨き、トイレに行き、寝る。


この中の3分の1以上が無駄である。親が死ぬか、親に見放されるまでは、ニートになって食ってトイレに行って寝るだけの生活もできる。*16小氷河期が来るまでは*17、人気のない森の奥深くに住んで、自給自足の生活を送ることもできる。しかしなぜか私達は、毎日毎日、相も変わらずに学校に行く。或いは会社に。

なぜか生きている

不条理を感じる人は、生への洞察が鋭い。そのため、日常生活の、或いは慣習の非合理な側面や、理不尽な性質をありありと感じとってしまう。「生きるとは?」みたいな問いに思考が支配されるようになったら、セラピー等に行く方が良い。自殺する可能性が高い。

生きることに、目的や意味なんかない。

私は『とりあえず生きてみる』ことにした。そのおまけとして、PNSEや高IQがついて来た。退屈を苦痛に感じるという特典もついて来た。私はその退屈を使って、このブログを更新している。


私は、たぶん運が良かった。これからもそうであるかはわからない。再び不条理に苛まれる可能性も、十分にあるだろう。しかし、私を不条理という不運が覆い隠していたとき、メタ考察という幸運もまた、確かに存在した。だから私は生きている。*18


よく、人生に意味や目的を求める人がいる。「自己の存在証明」だっけ?私に言わせれば、そんなものはない。人間が考える意味だの、目的だのは、人間が生まれた後から取って付けたものである。しかし、多くの人は「生きる意味がない。」と言って自殺する。

上も下もない

云々や画一的すら読めなくても、「イエスかノーでお答えください。」という日本語の意味が理解できなくても、『彼は首相だから偉い。』とでもいうような態度の人がいる。


「学があれば偉い。」「高給取りは偉い。」「清貧は偉い」「白人は、日本人は偉い。」「現役世代は偉い。」「男は偉い。」「健常者は偉い。」「人間は偉い。」


様々な評価基準がある。しかしそれらもまた、人間が後から仕立て上げた偶像に過ぎない。『無意味、虚実の努力をした人間の自己責任だ、』とは言わないが、そんなもののために身を削って「頑張って」しまったから、自殺をする気がする。

私が生きる理由

そんなものはない。たまたま、なぜか自殺しなかったから、とでも言おうか。もう少し真面目に考えると、一度は死の門を叩いたからだろう。


私は未だに、自殺寸前の、死の淵に立っている。しかし、自殺の危険を一切感じない。私は楽観的だろうか?


私は、『生』という虚構に向かって生きる意味を見失ったが、その不条理から抜け出すために『死』に向かう意味を、未だ知らない。どこにも移動する気が失せた代わりに、すべてがリセットされた感じ。「どこにでも行ける」なんて言わないけれど。*19

移動のすゝめ

数ヶ月間、異国に旅するのも良い。大きな引っ越しをするのも良いだろう。parkourも。未だ話したことがない人に、話しかけてみるのも良いだろう。


とにかく、未だ自殺しようと思っていない内に、移動することをオススメする。


不条理は、バイアスによって固定され、より強固なものとなる。自殺とは、生のエネルギーを「死ぬ」方向にしか向けられなくなることである。「生きる」ことが億劫になることである。

移動を勧める理由

今の内に、生のエネルギーを様々な「無駄」に思えるようなことに使うこと。これは自殺を予防する。*20


生産的な、或いは有意義なことに時間を使ってはいけない。それは明確な「目的」や「意味」を持った行為だからだ。なんとな~く、只単に『やってみたい』ことをやること、それが良いのだ。

結論:好きなことをする。

「好きなことで、生きていく」なんて言っているわけではない。仕事が生き甲斐に『なる』なら、それは幸せなことだろう。しかし、無理に仕事を生き甲斐に『する』ことをしようとすれば、その先に待つのはうつ病である。


端的に言えば、趣味を楽しめば良いのだ。ケムリクサとか、哲学書とか、parkourとか、考察とか、ブログとか。中途半端だが、以上!

*1:俗に言う、「エモい」。えもいわれぬの略語ではないが、似たような意味だから分かりやすい。

*2:人類は移動し続けてきた。また、人間は1日の退屈にさえ耐えられない。これは人間が、移動している実感を求めている証拠であると言えるだろう。

*3:ここからは詩的な文章。飛躍している。閲覧注意。

*4:「死の門から、閉め出されている」と言っても良い。

*5:作者になんやかんやあったが、物語そのものは好きだ。

*6:アニメ化された。面白いよ!

*7:直訳・仮想現実。以後、VR

*8:俗に言う、「プログラミングする」

*9:VR

*10:その世界では、70億の人口が複数のVRに接続することができるため、素人が有名どころからコードを「コピー&ペースト」すると、往々にして世界が「かぶる」ことがあるだろう。ログ・ホライズンの登場人物らは、そうして出会ったものとする。

*11:行動を動機付けようとするもの。動機付け。

*12:シューシュポスの神話

*13:→その世界に閉じ込められている

*14:ここでは不条理を『幻想』と言ったが、不条理に圧し潰されそうになりながら生きている人たちにとって、不条理や死は、紛れもない『現実』である。

*15:私は考察する習慣がなければ、死んでいただろう。考えることを習慣にしてくれた母には、感謝してもしきれない。

*16:日本経済が破綻しない間は。もう少しで危うい。

*17:今でも、気象のカオスのために、野営がほぼ不可能な場所は多いかもしれない。

*18:自殺を考えている人には、あまりためにならないかもしれない。

*19:この逆接の使い方を許して。

*20:自殺が、ベクトルを死への単一方向に固定するものなら、生きることとは、ベクトルを様々な方向に向ければ、それは自殺を予防するのだ。「単純過ぎる」と思うだろうか?世界は、あなたが考えているより単純なのだ。

記憶

記憶

それは、「既存の記憶に」紐付けられて保存されるらしい。*1

原始の記憶はどこから

私はそれを知ったとき、この疑問を抱いた。なら、胎児の状態で既に、「人類の記憶」なるもの*2があるのか?いや、それは無理がある。

  • 記憶の定義

それを見る学問によって異なる、曖昧なものである。しかし、少なくとも脳科学的に言えば、『神経細胞のネットワークに、重み付けられ、体系付けられて保存されている情報』だろう。*3


その「神経細胞」すらないDNAが「人類の記憶」なるものを保存できる可能性は、どれほどあるだろうか。

それなら

原始、子どもの記憶は、全く何もないところから形成されることになる。その過程を私はまだ知らない。一体、どんな仕組みだろう。

*1:諸説🐜ます

*2:全人類にとって、既存の記憶。すべての記憶は、これに関連付けられる?

*3:あくまで我流の定義である。

闇と光

ケムリクサとけものフレンズの違い

端的に言えば

以前、Twitter*1上にて、

『ケムリクサは、闇の中で光を探す物語。
けものフレンズは、光の中の闇を探す物語。』

と言っている人がいた。良い得て妙である。この記事で私が言いたいことは、殆んどこの一文に集約されていると言っても過言ではない。

具体的には?

けものフレンズ

基本的に明るい。登場人物が死ぬことはないし、激しい戦闘シーンもない。


しかし、「闇が深い」だとか言われるように、世界設定が複雑である。


少なくとも、「人類は滅亡した」可能性が高いことだけは、作中で*2明言されている。

優しい世界

たつき監督のアニメ愛は、過去記事で紹介した通りである。また、名前を呼んではいけないあのアニメ特有の「ギスギス」した雰囲気が、けものフレンズにはない。


所謂『トゲ抜き』google:けものフレンズ とげぬきがなされているためである。「フレンズ」を量産したこのアニメの、ケムリクサに負けずとも劣らない、高い依存性は、この「世界観」に大きく依存する。


しかし、登場人物が多いため、かばんちゃんやサーバルちゃん以外には感情移入し難い。それが唯一の難点である。

ケムリクサ

基本的に暗い。1話冒頭で早速、登場人物の一人が死ぬ。8話でも、シロたちが機能停止する。


戦闘シーンでは、りんの腕が消し飛ばされたり*3、また彼女が片腕片足を失ったりする。*4りなが死にかけること*5もある。

それでも優しい世界

このアニメもまた、けものフレンズと同じように、「考察アニメ」としての面を持つ。小ネタには事欠かないし、相当細かい部分までこだわり抜かれているので、考察するだけで12話まで駆け抜けることも、不可能ではない。


しかし、ケムリクサを語る上で欠かせないのはやはり、けものフレンズに負けずとも劣らない「世界観」である。ケムリクサを視聴した人は、口々にこう言う。

「ケムリクサは、愛の物語である。」

どういうこと?

「そんなグロいアニメなのに?」と思うかもしれない。しかし驚くなかれ、この恐ろしいアニメは、回を経る毎に異なる顔を見せる。


1話の時点ではポストアポカリプス。11話で、時を越えたワカバとりりの物語*6


そして12話では、「りんが、わかばのことが好きであることを自覚し、好きだ。と言う」、まるで少女漫画のような王道ストーリーとなる。

視聴者の変化

最初は、「何だこの変なアニメ」くらいの気持ちで観ている。多くの人は、4話くらいから不思議に見入ってしまい、8話で「シロおぉ~!」9話冒頭で「りなちゃんんん~!」10話で、11話でedで「あああああぁぁぁ!」となり、12話ではもう、「好き。」になっている。

わかばへの評価

最初は、「男が出た!殺せ!」くらいの嫌悪感を抱いていた我々ヲタクが、8話では彼に同情して泣きそうになり、11話では彼を「お父さん」と呼ぶ。12話では、「末永く爆発してくれ。」と願っている。

たつき監督成分が多いケムリクサ

けものフレンズは元々、メディアミックスであるから、たつき監督の自由度は低い。けものフレンズは、たつき監督らしい演出が存分に発揮された作品*7と言えるだろうが、たつき監督の自由度は、ケムリクサに劣る。


それに対してケムリクサは、「原作/監督/シリーズ構成/脚本/演出」すべてが、たつき監督の担当である。作画や美術、音楽以外は、『ほぼたつき監督』と言っても過言ではない。

どっちも良い!

私はケムリクサの方が好きだが、結論としては、「どっちも良い。」それだけだ。*8


私の印象としては、けものフレンズは「広く浅い」、ケムリクサは「狭く深い」層に受けるように思う。つまりハマれば、ケムリクサの方がのめり込む可能性が高い。

とにかく見て!

こんな弱小ブログでは、とてもステマにはならない。また、2つとも商業作品として大きな成功を納めているため、私のステマなど、必要としていない。


単純に、「ケムリクサ…けものフレンズも、好きだ。」と発信したまでだ。


google:けものフレンズ
google:ケムリクサ

*1:私は今、殆んどTwitterをやっていないため、うろ覚えである。

*2:博士によって

*3:5話ヌシ戦

*4:12話赤い木戦

*5:10話冒頭

*6:名前がついていたが忘れた。

*7:irodoriらしい作画や美術も、商業作品ではケムリクサの次に発揮されたと言えるだろう。

*8:但し、本当にけものフレンズ愛する人なら、続編を見るべきではない。私は見た結果、ニコ動の呪詛の闇を、数日間漂うことになった。あんな悪夢は、最初から存在しなかったのだ。