「死んだら負け」

本記事では、奇天烈且つ不可解な言動や創作の数々を紹介する。

松本人志

私は、私が尊敬する人や、特段嫌いでもない人には『氏』をつける。私が彼に敬称を使わないのは、まあ、そういうことだ。


私の彼の評価が「どうでもいい」から「嫌い」に変わったのは、下の発言がきっかけである。

「死んだら負け。」


私が彼のこの妄言を憤ろしいと感じるのは、元・自殺志願者としてでもあるが、それ以上に一人の人間として、軽蔑した。「彼もまた、自己責任論者か。」と。

「死んだら負け」

この言葉には往々にして『逃げる』というニュアンスが付きまとう。

「その人は生きることができた。なのにそれを放棄して、生きることから逃げ出した。だから、その人は『負け』た。」


要は、こういうことが言いたいのだろう。

発信のジレンマ

私がなぜ、これを『自己責任論』と言ったのかがわかる人がこの記事を読む必要はない。その人は既に、自己責任論を認識しているからだ。


本当に私が言説を届けたいのは、私が今何を言っているのか、全くわからない人である。しかし、彼ら彼女らがこれを読んで、自己責任論を認識できる可能性は低い。


彼ら彼女らは「万人は、無条件に平等である」という幻想の中にいる。だから、「万人は、無条件に不平等である。」という理論を受け付けない。これは永遠のジレンマだ。

本当に「自由」ですか?

話が脱線したので本題に戻る。逃げるという『選択』は、「自由」な状態にある者のみが、下すことができる。自殺した人は「自由」だったのか?


もう、そう勘違いしている時点で何もわかっていないバカ丸出しで、正直、「自殺についてもっと勉強して」と言う他ないのだが、今日は丁寧に説明する。

不条理と自殺

結論から言う。自殺志願者に、自由などない。


この概念は、『主戦場』で「奴隷は鎖に繋がれているんだから…」とバカを自称していたような人には理解できないだろう。勉強してください。リンクも貼っておく。google:シューシュポスの神話


過去記事で説明した通りなのだが、不条理な世界に生きる人間にとって、「死(自殺)」こそ唯一絶対的な現実である。逃げるだのなんだのと、「選ぶ自由」はない。