すいません、をやめる 自責的思考・自己責任論からの解放

今日は良いことがあった。遅刻する自分を初めて肯定した。


今、私は幸いにも、考察したことによって、その症状をだいぶ緩和し、自己嫌悪に陥ることもなくなったが、少し前は恐らく、マスターベース依存症だった。
自慰行為をしている自分を肯定して初めて、かなり楽になった。不思議なことに、自慰行為の回数もかなり減った。


逆説的で分かりにくいが、遅刻する自分を、自己責任論に汚染されて、頑張り過ぎたワナゴを肯定して初めて、遅刻の対策となる。


自己嫌悪に陥るのは危険だった。オナ禁をして、自殺未遂をしたこともある。ナイフを首に当てるくらいで済んだけれど。首が痛くなって、自分が首にナイフを当てていたことに気づいた。


私は体力と筋力だけはあるから、自己責任論の文化と相性が悪かった。今でこそ、虚弱体質となることに成功し、過労死か自殺をするまで頑張ることはできなくなったが、少し前は酷かった。


本題に戻る。なぜ、遅刻する自分を肯定したのか?自己嫌悪、自己批判(自責的思考)は危険だからだ。これはすべてにおいて言えることだ。日本には熱心な儒教徒が多い上に、全体主義に基づく自己責任論があるから、どうしても自責的になり易い。


私は「自慰してすみません」を克服した。私の考察によって。しかし、それが今度は「遅刻してすみません」に変わった。もう気づいたかもしれないが、アドラー的考察をすれば、これを「敢えて」している。勿論、無意識下で。
これは説明が面倒な上、かなり長くなるので、省く。アドラーを読んで下さい。または自分で考察してみて。


その行き着く先は「生きててすみません」という原罪意識である。そして、人は死ぬ。全体主義が勝ってしまった場合には。