遅刻する理由 バイアスからの考察

先ず、フロムの「自由からの逃走」を読んで下さい。(自分もまだ理解していないかも…)


「人は責任を回避するために、自由な自我を捨てる」という概念が、先ず必要。(自由意思が存在するか否かについての議論を省略する。)


特に人は、全体主義に基づく自己責任論に汚染された地域において、責任を回避しようとする。それは一人だけの責任ではなくなったが政府、社会問題…様々な問題が個人のものとされてしまった。そんな巨大な責任を、個人は背負うことができない。


だから、「我」を消す。そして集団に同化する。共同体としての自分を強調することによって、責任を逃れようとするからだ。


その時、「個性」は死ぬ。「認められる個性」と、「認められない個性」があるからだ。当然、人は後者でありたいから、多様性は死ぬ。


自我に危機が訪れる。自分で、自分がどういう人間なのか、わからなくなってしまったのである。


その時人は、とりあえず「規範」に則る。個性なんて、やりたいことなんて無くても、「規範」に依存すれば考えなくて良い。だからとりあえず学校に行く。とりあえず進学する。「かのような人格」である。


私は幸いか不幸か、自らの虚無に気づいてしまった、元「かのような人格」である。アイデンティティークライシスに近い状態になる。「一体自分はこれから、何をすれば良い?」


規範から脱しようと、遅刻したり、風呂に入らなかったりする。それは私の自我の、最後の抵抗である。しかし、反動形成によるものだから、遅刻もまた「やりたいこと」ではない。EGOよりselfの声に、耳を傾ける必要がある。


このとき必要なのが、「男」からの脱却。その生物は感情を抑圧する。それでは、何がしたいのかわからない。また、自分はその振る舞いを女性に似せてきたので、軽度の「脱コル」をする必要がある。


最も重要なのは、学校に行く人は「偉い」、そうでない人は、「偉くない」という認識を軽減することだ。(私の規範行動と反動形成は、恐らくそのバイアスに依っている。)


誰も彼も彼女も皆、理由もわからないまま、学校に行くのだ。それを理解する。恐らく学校に行くことができなくなった人は、学校に行く理由がないことに、気づいてしまったのだろう。


なぜ学校に行き続けるのか?辞めてしまえば良いのでは? そう思ったこともあったが、どうせ学校を辞めても暇だろう。学校は暇潰し。(命を懸ける暇潰し…)


また、一人でいる時間が長くなる上、恐らく外出もあまりしないから、バイアスが強化され、自殺する懸念がある。今は登校して死にそうだが、家にいると更に早く死にそうだ。


私は社会の、「べき論」や男尊女卑、自己責任論やその他日本の文化に苦しめられている。学校=私にとっての社会に行くことを辞めても、呪いは残る。自分は、自分が死にたい理由を発見しに、学校へ行く。