自責の夜明け ワナゴの考察

今日、「ああ、やっと終った。」という、長い夜の夜明けにも似た感覚があった。
とりあえず、1つの自殺の危機は去った。


「こんな小さなことのために」命を絶とうとしていたことが恐ろしくなった。人はああも、変わるのだと。


全体主義や自己責任論等によって、そんな下らないことのために人が自ら命を絶つのは、悲しすぎる。結局、傷つけられるのはいつも、多数派に馴れない良心ある人で、加害者に成れない被害者なんて、おかしい。笑えないけれど。


これは基本的にワナゴのための、自分のためのブログである。しかし、もしこのブログを読んでいる人で、死にたい人がいるなら、その人の気休めになれたら幸いである。


何か、貴方を苦しめる呪縛に、貴方自身が気づく機会になったなら、それ以上の喜びは無い。死に損ないにも人を救えるなら、救いたい。


気が向いたら、自責の夜明けを更新する。


それとは別に、確信したことがある。「自殺念慮に強い(希死念慮さえ起こらない)、生存の究極は悟りだ。」と。私は別に、宗教に勧誘しない。創価学会幸福の科学に入信して、公明党自民党に投票させられろ!とは言わない。科学的根拠がある。


それはPNSEという状態だ。自殺率が最も高い、白人種にこれが最も多いのは面白い。自殺のPNSEは自殺の反動形成?


PNSEになりたいなら、瞑想をする必要がある。PNSEを目指すなら、習慣化する方が良い。


しかし、注意点がある。「PNSEのために瞑想しない」。矛盾している。だが、二次的動機の危険性は、過去記事で説明した通りである。「PNSEに憧れたから、瞑想を始めた」なら良い。


PNSEになりたくないなら、雑談するしかない。?雑談?そんなことで生きられるのか?生きられる場合もある。


雑談は、何の役にも立たない。もし、生産的な議論をしているなら、それを雑談とは呼べない。「雑」談だから良いのである。


雑談には目的がない。(二次的な動機に依らない。)ただ暇だから、偶々近くにいた人と無駄な話をする。これが良い。


「何も考えずに呆ける」のも良い。(ここまで来ると悟りを開いていそう。)


すべてに共通していることは、「日常生活において、過剰に使われている回路(脳神経細胞ネットワーク)を休ませる」ことだ。マインドフルネスも良い。


自殺は、マルチタスクに依るところが大きい。だから、いつも使われて疲れている脳領域を休ませる。これが重要。


過去記事の 自殺の原因 ?だっけ?も同じ。偏見は、過剰に使われた回路が生み出す。だから、新しい(違った)刺激を入力すると、偏見は休みを貰ってバカンスに行ってしまう。だから自殺の危機は去る。