中途半端な視線

「見るな」の文化のくせに見る日本人。抑圧されているから、その反動形成かもしれないけれど。


系統としては、自己責任論=迷惑をかけるな、かけられるな から派生したものだろう。いや、もっと古いかもしれない。


平安時代、異性を「見る」ことができるのは、結婚した相手のみだった。「目合ひ(まぐわい)」は情交、つまりhaving sexのことだ。


(勘違いしている人があまりに多いので、微力ながら訂正したい。sex は生物学的な性、つまり性別を表す。それ自体は性交を表さない。また、sexism は、「(性)差別主義」となるため、様々な属性を表すこともある。have sex になって初めて、「情交する」という意味の動詞になる。)


その名残か否かは判然としないが、現代にも、「目を見て話すのは無礼だ。胸元を見るのが礼儀。」とする文化はある。「見る」という行為は、それほど大きな意味を持つということだ。


日本はわりと色濃く見るなの文化の筈…だが、やはり見たいものは見たいのだろう。


naokimanという人が、「日本人は、悪い意味で他人に興味がある。」と表現していた。見事に的を射ている。


新聞もテレビもネットも、ニュースはどうでもいい芸能人、つまり赤の他人 のゴシップばかり。どうやら世間の人は、自分に関わりのある政治より、自分に関わりのない他人の不幸が美味しいらしい。


自分は、有象無象、紋切り型の似たような考え方で、「精神的豊かさ」も何もない日本人に興味などない。でも、ピンク色の傘を、制服を着て、登山用ザックを背負った男が持っている様は滑稽であるらしく、じろじろと見られる。気持ち悪い。


ほんの少し練習すれば、真正面を向きながら、左右にいる人の目がどこを向いているか、くらいならわかる。練習なんてしなければ良かった…