創作(バッドエンド) 命令形の無い海賊

(短いです。また、初めてだから拙い部分もあると思います。)


その昔、絶対王政による圧政により、戦争が始まった。若い者は、戦争に行くか、行かないか、選択を迫られた。


殆んどの者は戦争を選んだ。「愛国心」を植え付けられた臣民にとって、徴兵制には「一人前の大人になる」というニュアンスが含まれていたからだ。


当時の独裁者の名はhoznihseba(ホーズニシーバ)。hotuysnim(ハータイズニ)の不安定な政権の後であるため、人々は口々に、「与党と野党、どっちもどっちだが、首相を任せられるのはホーズニシーバだけ。彼はよくやっている。」と言った。


そう、この国は先進的に民主主義を採用していた。ローマならぬ、napaj(ナーパジ)帝国である。


だから誰も、戦争が起こると考えていなかった。「徴兵制」とは、大人になる前のいち過程であって、自衛軍志願の有無に関わらず男女共に受ける、儀式のようなものだった。


そう、彼ら彼女らは権利の上に眠ってしまったのだ。それまでは活発に行われていた議論も衰退し、虚実な受験戦争、自己責任論、男尊女卑、生産性による差別…人々は疲弊し、国は衰え続けていた。


殆んどの人がそのことに気づかないまま。ちょうど、現代日本のように。


だから、彼ら彼女らは知らなかった。hoznihsebaが戦争できる法案を強行採決したことを。その国の平和憲法は、その法案が成立した瞬間、只のゴミになった。


法案の名は、nnaohopna(ナオハプナ)。一部の左派の間では、「戦争法」と揶揄された。


公職選挙法が制定された。この実は、「野党は選挙期間中に何も言うな」ということである。


程なくして、「テレビ」で著名な芸能人がなぜか、判で押したように「私は、改憲賛成です。」と騒ぎ初めた。選挙期間中のことだった。


公職選挙法違反だ。』という批判を一部の野党議員が取り上げたが、なぜか都合よく「イエスかノーでお答えください」という日本語だけが理解できないホーズニシーバは、「あー、あのですねぇ~それはですね、あの全く私のその、言っていることとおかしい訳でしてね、えー、…」


と、延々と奇怪な言語を羅列し続けるだけ。結局、「イエスかノーで」答えることはなかった。


勿論、左翼派の護憲活動も活発だった。しかし、呆気なく憲法は改悪された。70年以上続いた平和憲法は、ホーズニシーバによって破壊された。


徴兵制が形骸的ではなくなって行った。徴兵の下限年齢は引き下げられ、徴兵期間は伸び、訓練はその激しさを増した。


また、「よき市民」を量産するため、義務教育には「愛国心」が加えられ、「倫理」の授業が教科になった。


恐らく、薄々気付いていた人は、相当数居ただろう。『何かがおかしい。』この国は確実に、奇妙な方向へと進んでいる。


しかし、彼ら彼女らは、選挙に行かなかった。国のマスメディア「教育」の成果である。政府はテレビのマスメディアに、「選挙を放送するな。」と言ったのである。


全員が現状から目を背けた訳ではない。中には、「海賊」を名乗る者も現れた。『戦争に行くなんてまっぴらごめんだ。国ごときのために死にたくない。国のために殺したくない。』


しかし、彼ら彼女らが「海賊」と呼ばれることはなかった。『非国民!』情けない!そう言われただけだ。


そこで、彼ら彼女らは団結した。国の都市部である、「T都」に集結したのである。


彼ら彼女らは言った。『どこの国にも属さない。誰のものでもない。完全自営の海賊さ。』声高々に。


彼ら彼女らは、徴兵令を拒否した『異端』同士、気の済むまで議論した。「若いって何だろう?」「自由って何?」「美しい、とは?」


彼ら彼女らは議論し、恋愛し、しかし一人の時間を持って共同生活した。『自立した個人』同士が、互いに緩く繋がっていた。


そこには地位は無い。人種なんて、年齢なんて、性別なんて、あの海賊たちにとっては、大した問題ではなかった。「自分以上の自分になる。」海賊たちの口癖だった。


誰かが言った。「私達は、新しいマイノリティだ。新しい文化には、新しい思考、新しい言葉が必要だ。」


誰かが言った。「命令形をなくそう。命令は秩序から生まれる。ここでは誰もが自由だ。そんな場所に、命令は必要ない。」


誰かが言った。「原始、文法なんてなかった。国家が、秩序が出来てから文法が作られた。命令形を使わないというのは、存外に容易であるかもしれない。」


こうして、命令形の無い海賊が生まれた。その背景には、全体主義による絶対的な「命令」が、徴兵令があった。


誰かが言った。「大変だ。政府が俺たちを殺すために、自衛軍をT都北部に集めているらしい。奴ら俺たちを殺す気だ。」


誰かが言った。「全国で命令形の無い海賊が増え続けていると聞く。見せしめに私達を殺して海賊を抑え、戦争するためだろう。」


「…どうする?」


「…戦うんだ。戦争するんじゃない。誰も殺さない。でも戦うんだ。」


「なぜ戦うの?」


「自由を守るためさ。政府は僕達を殺すことによって、海賊を、自由を抑えつけようとしている。ここで負けたら、この国の自由は完全に終わってしまうかもしれない。」


「そうよ!ホーズニシーバに従うのが嫌でここにいるんだもの。ここで負けたら、独裁者の思うツボよ!」


「しっかし…人を殺さない戦争とはな…向こうは殺しにかかって来るんだぜ?よし!決めた!取って置きの複合格闘術をこしらえてやろう!殺さないからかなり複雑だぞ?覚悟は良いか?」


「そんなこと、海賊になったときに済ませた。」


こうして、命令形の無い海賊は、自由を守るために、戦った。


――――――――――――戦争―――――――――――――――――――――――――――――
(自衛軍)

「強いが殺しに来ないだあ?」

「そうなんです。奴ら、奇妙な立ち回りで、見たこともないような戦い方をするんです。しかし我が軍の負傷者はいません。」

「(不殺―殺さず―の海賊ねえ…一丁手合わせ願いたいな…)奴らは今どこだ?」

「…え?どこって、もう海戦は終わりましたが…」

「ん?…ああ、すまん。命令形の無い海戦討伐の命令を読んだのは、自分だったな。」

「…はい。それでは、自分はこれにて失礼致します!」

「ああ、また後でな。(そうか…もう死んだのか。)」

グレゴリオ歴2021年、命令形の無い海賊は討伐された。その記述に依れば、生き残った者は誰一人いない。


ホーズニシーバの思惑通り、ナーパジの海賊結成活動は年を経る毎に衰退し、数年で完全に鎮圧された。


戦争というのは、「弾み」で起こって「流行」で続く。


(ベトナム戦争のとき、アメリカは失敗した。残酷な戦争被害者の映像がテレビに流れたため、戦争反対の世論が活性化した。


所詮は世論などその程度のものだ。いつもは責任から目を背けているのに、残酷な戦争を見た途端に意見を変え、流行が起きる。


アメリカ政府は「反省」を活かし、それ以降の戦争の映像を流すことをマスメディアに禁じた。その結果として今では、戦争は「御国を守るための必要悪」になってしまった。戦争の血生臭いところを、彼ら彼女らは知らない。)


海賊も同じだ。元となる運動が起きた後、複数の共同体がそれを模倣すれば、海賊結成は、戦争という全体主義に抵抗する「社会運動」となる。


しかし、流行は所詮流行。ナーパジの文化が変わった訳ではない。ホーズニシーバの思惑通り、元となった海賊を見せしめに「殺す」ことによって、海賊結成の流行は終わりを迎えた。


―――――――――――――――――――――――――――――


*1


どうでしたか?ワナゴ史上初の創作です。拙い部分も多々あると思うので、ご指摘はバシバシお寄せください。まあ、ブログを閲覧する母数が少ないだろうから、指摘も少ないでしょう。


大抵、というかすべて?バッドエンドになります。私はご都合主義的な、納得できない終わり方を嫌悪する人間だから、何か物語を書くときには納得できる終わり方にしようと決めていたからです。


納得できるなら、ハッピーエンドもあるかもしれないから、ここまで読んでくれた物好きさん達は、お楽しみに。

*1:この創作は、東京演劇アンサンブル「消えた海賊」とほぼ同じ内容です。その物語の、「現代社会」みたいなエッセンスをかなり濃くして、これを書きました。