私の表現のモットー

(私はmottoという言葉が好きである。「今や、政府は文化を変えられる。」


それを如実に表し言葉だからだ。mottoの原義は、今で言う「マニフェスト」のようなもの。元は、「民衆」ではなく、「政府」が叫ぶ言葉だった。


しかし、それが今では、「個人の信念」というような意味にまでなってしまった。


ほら、「政府が文化を変えた」んだ。)


それは全体主義に与しないこと。


私は自称・痛烈な批評家であるから、こういう記事の中でよく、右翼的な人を「国家の犬」(安倍の羊)とか「空の瓶三本で満足するブルジョアジー」(もう金があるから、日本が貧しくなっても痛くも痒くもない。むしろ、貧富の格差が広がるおかげで儲かっちゃう♪人たち。民主主義の敵。)などと揶揄することがある。


しかし、それらは決して、全体主義的立場にはない。


まず、「全体主義的立場に立っている政治的立場への批判」とは何か?それは、知識人かまともな人を、「非国民!」だとか「情けない」とか言うことだ。


(批判する言葉に着目すると、興味深い傾向がわかる。非国民、だとか情けない、だとかそういう古臭い言葉は、(彼らが、「極右=国民」と定義した上での)「国民」という共同体?から外れている者に対して使う言葉だ。


流石は「ネイティブ・ジャパニーズ」。日本の現地住民は民主主義が理解できないから、部落共同体意識が根強く残っている。


それに対して左翼による批判は興味深い。犬だとか、牧場の羊とかそういう言葉は、権力に「屈服した」者に対してのみ使う言葉である。


只単に、「自分とは違うから」無根拠にヒコクミン!ナサケナイ!と喚いている人たちとは違って、「自ら自由を放棄し、権力に下った」者に対して、批判が行われるのだ。)


また、「左翼」は永遠なマイノリティだろう。(例の劇で、「私達は新しいマイノリティ。」と嬉しそうに言う場面も印象に残った。)


恐らく、左翼という細胞は、人類を超個体とするときの免疫系だろう。全人類が右翼になってしまったなら、瞬く間に核の冬が到来し、地球上の人類は死滅するだろう。殆んど確実に。


人間は、地球を自然宿主とする寄生生物である。


ロイコクロリディウムは寄生虫であるが、カタツムリの次に鳥に寄生できることを知っている。その次に再びカタツムリに寄生できることを知っている。


人類は未だに、地球の他に寄生できる惑星を知らない。


それなら人類は、地球で生きなければならない。この、氷河期が到来し、火山活動は活性化し、地震津波が増え、降水や氷雪が増え、地上での生存がほぼ不可能になる、この不毛の土地で。


人間同士で争っている猶予は無い。どうしても、急進的な改革が必要であると感じるのだが…こんな状態で生きられる?人類は。


特に日本は厳しい。税金は、株式を爆買いして目減りし、残りは国会議員の懐に入る。彼らは、残り99.98%への核シェルターの普及より、自分の方が可愛いらしい。


(この国の核シェルター普及率は、異常な0.02%!このまま2030年(私の予想では2020~2021年)から始まる氷河期を迎えれば、単純計算(=2019年での人口)で、日本国籍を有する1億2475万1409人が死ぬ。)


(大きな考察の前だから、こんな「振り返り」みたいなことをやっている。私の雑記を読んでいる物好きにとっては、まあ、退屈しのぎ程度にはなるかもしれない。近日公開!)