ワナゴの辞典 理想

これは率直に言うと、「私にとっての、理想の社会」である。


また、「ワナゴの辞典 マルチ」(過去記事)とは違って、希望的観測が多分に含まれる。筋が通っていないハッピーエンドを嫌悪する、私のような人間にとっては、閲覧注意である。

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先ずは悲観的な予測から。これは周知の事実であるが、今日本の経済は、戦後最悪である。


また、私の予想では、これは更に悪化する。


国は教育への、自国の将来への投資をやめた。そう、「やめた」と言っても過言ではないほど、教育を軽視している。これは自殺行為である。


また、国は生活保護を驚くような速さで減らし続けている。アベノミクスの失敗には目を瞑り、「財政」という言葉が理解できない馬鹿な政治家は、「お前が貧乏なのは、お前の責任だ。俺は知らない。」と言う。


(↑「じゃあ、何でお前は国会で寝るのを生業として年収40000000円以上あるのか?すべての問題を国民の責任にするなら、お前ら与党議員は要らない。」と言いたい。


是非とも、「貧困は精神の欠如ではなく、金銭の欠如である。」を紹介したい。漢字すら読めない、三本の瓶に理解できるかは考えないことにする。)


また、強行採決された戦争法のおかげで、この国が70年以上守り続けた平和は、狭義での意味すらも、合法的に破壊される権利を得た。


違憲だが合法である。」これは日本国憲法が「アメリカに押し付けられた」ものであると洗脳された、「憲法は国民に押し付けるもの。政府はこれを守る必要がない。」と勘違いしている馬鹿な政治家が開発した屁理屈である。


この言葉は、「アメリカに押し付けられた憲法より、日本人である私が考えた法律の方が上位である。」という本音を覗かせている。


つまり、「違憲」でも何でも良いのだ。強行採決してでっち上げた、「法律」という偶像さえあれば、何をしても許される。政治家がそう勘違いしている。


恐らく彼らは、日本国憲法第10条「最高法規」を読んだことがないか、読んでも理解できないだろう。


違憲審査」は既に形骸化した。最高裁裁判官の約半数近くが安倍の犬。この国では誰も、安倍か彼の「お友達」には勝てない。


それは、伊藤詩織氏をレイプした決定的証拠があるにもかかわらず、安倍のお友達であるレイプ魔が海外に逃げる直前に、同じく安倍のお友達である警視総監、つまり「警察の最高権力者」からじきじきにストップがかかったことによって証明済みである。


(当然、裁判官の誰もが忖度する。絶対的な国家権力を前にして、伊藤氏は刑事裁判では勝てなかった。)


マスコミももはや、安倍の犬である。メディア操作にかける費用は「年間100億円」とも言われる。それは勿論、国民の血税である。


ある公明党議員がニュース番組の街頭インタビューを「チェック」したとき、現政権に批判的な意見があった。「こんな『不真面目』なインタビューは駄目だ。『真面目』なものにしろ。」公明党議員が言った。それが2010年である。


(自分に都合が悪いことは不真面目か…そりゃあ良いや。←やめなよ…あの人たち、正論を言われると逆ギレするから…一人突っ込みである。)


それ以来テレビは「反省」して、安倍に都合の良い意見しか映さなくなった。現政権に批判的な意見は、今では「報道ステーション」くらいでしか聞くことができない。


(しかも、そのまともな人たちも少数である。テレビから独裁者の粗を隠す忖度は、確実に成果を上げ、「よき市民」を量産している。)


安倍は自称・「立法府の長」である。どんな悪法も強行採決しているから感覚が麻痺したのかもしれないが、便宜上、彼は「内閣府の長」である。(漢字すら読めない馬鹿な首相は、中学生の公民から学び直す必要がある。)


これまで列挙した通り、「三権分立」は、既に形骸化した。それは崩壊させられてしまったからだ。民主主義の皮を被ったこの国の実は、安倍という馬鹿な独裁者による「絶対王政」である。


(『この国の民主主義は形だけでいいんだ。』新聞記者ホームページhttps://shimbunkisha.jp/より引用。)


そんな状態で、この国に明るい未来などあるだろうか?いや、私はそう考えることができない。


しかし、逆説的に、この壊滅的な経済状況を理由にして、この国が自殺する前の束の間、ユートピアが現れる可能性がある。それが私が考える、社会の『理想』である。


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経済状況は悪化の一途を辿っている。こんな状態では、人々は「本業」だけで食って行くことができなくなるだろう。


そうして、「本業/副業」という概念が消え、「複業」(所謂マルチ)が一般的になるだろう。「マルチ」という概も消えるかも。


(皆がマルチだから。今、なぜか小説を書く芸人が持て囃されるのかといえば、それは民衆がマルチではないからだ。「マルチ」の方が多数になるとき、恐らくそういう概念は消える。)


これが第一フェーズである。


第二フェーズでは、人々の、「他人を呼ぶ/認識する方法」が変化し始める。何せ、殆んど全員が「複業」する時代である。一人が一つの職に就かないため、「職業名」は認識のタグの代名詞を降りる。


(「職業は狩人で、車の整備工と観光案内と剥製も作れて、趣味は家庭菜園、この別荘も自分で建てた」エイナルが、日本の「普通」になる?


↑そうなれば、彼は狩人で、整備工で剥製師?であるが、同時にそのどれでもない。私達は彼を「エイナル」と呼ぶ他ない。


北北西に曇と往け 第二巻試し読みhttps://www.cmoa.jp/title/137489/vol/2/より引用。)


言葉は、人間が持つ唯一の考えるためのメディアである。こういうことは、怪しい自己啓発の人なんかもよく言っていることであるから、知っている人も多いかもしれない。


人間は、言葉を使わずに考えることができない。つまり背理的に推測して、「人間は何かを考えるとき、必ず言葉を使っている」。


この仮説を突き詰めると、興味深い事実に気づく。使う言葉が変われば、「考えること」も変わるのだ。


つまり、「職業」という、一種のレッテルを使わなくなるということは、「職業名による差別」が薄くなっていく。


「彼はヘッジファンドのなんたらだから偉い」とか、そういうつまらない評価基準が廃される。


これが第三フェーズである。


すると、恐らく興味深い変化が起き始める。「職業が、その人間の評価に対して何ら関与しない」ということは、「学歴だけ良くても無意味」になる。


「精神の豊かさ」や「ユーモア」など、より人間的な基準によって、人間が量られていく。


(「学歴がすべて」という固定観念が薄くなって、恐らく、ホモソーシャルの「競争」も大人しくなっていく。その結果、将来不安が薄れ、いじめも減ると考えている。


↑どうしても、熱心な自己責任論信者が多いこの国では、「いじめているも悪いけど、いじめられている人にも、何か原因がある筈である。」という幻想に侵されている人があまりにも多いが、これは誤りである。


いじめというのは、ホモソーシャル社会でのヒエラルキーにおいて、「いじめる方の人間が」ある種の地位を保つために、日常的に行われている行為である。


なぜ、集団で個人を攻撃するというつまらないことが地位の維持に役立つのかといえば、いじめというのはイキリ文化であると言えるからだろう。


「ちょっと~ヤバいって~それはさすがにやり過ぎっしょ~受けるんですけどぉ~」観衆がそう言って楽しむためのもの、それがいじめである。「現代の魔女狩り」と言ってもいい。


そのため、いじめのきっかけなど、いじめる側にとってはどうでもいいことである。「そんなのはこじつけではないか」と思えるような、「いじめのきっかけ」も数多く存在する。


こんなディストピアで、「努力」など無意味。「いじめ」は殆んど避けられないものだ。いじめは、無理な組織体系が排出するゴミである。


日本とは違って、名実共に先進国だったアメリカでは、いじめられた子どもが「先生、あいつが僕をいじめるんだ。どこかおかしいかもしれないから、何とかしてやってよ。」と言う。)


そうなれば、受験戦争は終わり、もっと多様な職で、多様なことをする人が増えるだろう。


そうやって、人々が「当たり前に毎日見る職業」が増えれば、偏見は更に薄れる。うまく行けば、そういう好循環も起こるだろう。


また、「職業」が評価に影響しなくなっていくため、「生産性」による差別は薄れる。それによって、マイノリティの社会進出が進むだろう。女性の頭上にあるコンクリートの天井が、やっと崩壊するかもしれない。


(「障害者やLGBTQには生きる価値がない。女なんて、家にいればいいんだ。奴らに大事な仕事は任せられない。」が口癖だった元・差別主義者が、マイノリティに挨拶し、談笑しながら仕事をする社会があるのかもしれない。)


民衆が多様性を認識し、マイノリティの人権が回復される。これが第四フェーズである。


そして第五フェーズ。最終段階である。私が一番好きなのは、幕府が「中央集権ごっこ」で遊びながら、民衆が文化を築いた江戸時代である。うまく行けば、そういう時代が来るかもしれない。


職業も属性も、その国では人を評価する基準にならない。なら、「トラックドライバー」も「女」も使えない。人々は他人を呼ぶときに何と言うか、その人の「名前」を呼ぶのである。


(「MONSTER」という漫画がある。それはアニメにもなった。その作品の中に、「名前のない怪物」が登場する。monster は終始一貫して、「名前のない怪物の孤独」(と少しの狂気)を描いていたように思える。


「彼の、名前を、読んであげて。名前は、大切なものだから。」monster よりうろ覚え引用。


「名前を呼ぶ」という行為は、それ自体が一種の「社会的な肯定」である。「部長」と呼ばれるより、「野間口さん」と呼ばれる方が、より嬉しいということは、心理学の実験によって既に確認された。)


ここまで来て初めて、やっと私の理想に到達する。「名前」を呼ぶ行為は即ち、「トラックドライバー」でも「女」でもない、「個人」としての相手を、私は認識しているよ、と相手に伝える行為かもしれない。


他の誰でもない、「あなた」を尊敬するよ、という。


全体主義に立ち向かう方法は一つしかない。この長文を突破した猛者であるあなたならわかるかもしれないが、「個人を認識する」こと※である。


ちょうど、自民党が新憲法の草案で、日本国憲法から受け継がなかった、「個人として」という言葉は、その象徴である。


(※個人の尊重と同義。しかし私は、「尊」「重」という言葉が、「人権を侵すのが普通。人権を尊ぶのは偉い」と主張しているように思えて嫌いだから、使わなかった。)


個人が個人として認識される社会では、全体主義は意味をなさない。ちょうど、幕府だけが「元号」を使い、庶民はそんなことなど気にせずに十干十二支を使っていた、江戸時代のように。


そして、全体主義が長い間敷いていた、全体主義による人々の分断は終わりを迎える。独立した人々は、共同体の垣根を超えて、同じく独立した人々と関わりを持っていく。


明治維新以降、破壊され続けてきた「緩いつながり」の回復である。


ここまで来れば、もう何も怖いものはない。選挙率は大幅に回復し、自民党公明党などは、瞬く間にその支持率を下落させ、長く続いた独裁は終わる。少なくとも自民党は、民主主義の上に成立し得ないからだ。


もしかしたら、ベーシックインカムが実行されるかもしれない。自民党が死んだなら、(たぶん維新だの公明だのも終わるだろうから)誰も、自己責任論を布教する者はいないからだ。


(自己責任論教は、せいぜい安倍べったりが抜けない、極右芸人くらいが布教することになるだろう。仮にそうなったとしても、その人は「モラルが欠如している」と批判されるだろう。


インフルエンサーが害悪を発信する時代は、もう終ったのだ。「死んだら負け」と言う者はない。)


そうなれば、日本の貧困は軽減されるだろう。貧しさに埋もれていた才能が開花するかもしれない。


自公は、国を売る政府はもういない。日本はアメリカの植民地である、今の状態から独立し、アメリカの眼前に「ノー」を叩きつけ、長く沖縄を苦しめた基地問題は、終わる気配を見せるだろう。


(私は密かに、水道民営化だけではなく、もしかしたら、私が未だに気付いていないだけで、郵政も電車も原発も、すべて外資に国を売った背景があると睨んでいる。だから自民党と共に、原発は終わるかもしれない。


最も、これは何の根拠もない私の憶測であるから、括弧に括っておいた。)


水道民営化も、その失敗が認識された結果買い戻され、再び国営になるかもしれない。


こうして、長く国民を苦しめ続けたことが原因となって、長く国民を苦しめた与党が退陣することが、もしかしたら、あるかもしれない。


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これらはすべて私の、楽観的な方の推測である。事前に断った通り、希望的観測である部分が多い。


(先ず第一に、「複業」へと移行することができず、「本業」を続けてしまったとすれば、大量の社員が過労死するだけ。


「職業」いや、「働き方」という重要な問題についての大幅なパラダイムシフトが、先ずは必要不可欠である。)


しかし、(本心では、「そんなことなどあり得る訳がない」と考えているからこそ、こんな甘い推測ができるのかもしれないけれど、)なんだか、そうなることを願ってやまないのである。