届けたい人に届かない

世界一受けたい授業

養老孟司氏の、『死』についてのものだった。

リアルな死が消えていく

戦後、人は病院で生まれ、病院で死ぬ。日本は土葬から火葬に。葬式も地域のコミュニティではなく企業が取り仕切り、僧侶まで呼ぶ。水洗トイレが普及し、「人間くさいもの」は日常生活から覆い隠されて行った…

結論

「生物は複雑」だから、百均のカッターナイフで壊すことはできても、百均の接着剤で元に戻すことはできない。


「リアルな死が消えていくから、簡単に人を殺す。」

感想

必要以上の過剰な消毒など、「生臭いもの/人間くさいもの」を生活から排除する動きに違和感を感じていた。だから、彼がそれを代弁してくれて飲溜が下がる思いだ。しかし、それは本題ではない。

出演者の表情が…

何とも神妙な顔をしていた。まるで神の説法をきくかのように、「考えさせられるなあ…」とか言って、何も考えずに首肯していた。


眉間と目尻、唇の中央と両端頬などが緊張し、視線は全く動かず、どこか上の空な感じがした。そう、「視線が動いていない」、つまり何も考えていないのだ。思考停止していた。


また、表情の変化も殆んど無かった。「なるほど」と納得することも、「私はそうは思わない」と反意を示すこともしなかった。

なぜ

結局、養老孟司氏が伝えたかったことは殆んど伝わらなかっただろう。コメンテーターだけではなく、恐らくは殆んどの視聴者までもが、あの神妙な表情をしていただろうから。

養老孟司氏は神ではない

何が言いたいのかというと、なぜ神格化するのかということだ。


少しでも『死』という言葉が出ると、それを発した人をまるで神か預言者のように扱い、すぐに神格化して、「これは高名な学者が言うことだから、私には関係無い」と片付けてしまう。

自殺未遂して良かった

私は幸運だ。自殺未遂をした経験があるおかげで、『死』というものが非日常ではないからである。


いつでも死ねるようにナイフを7本持ち歩いたり、ナイフを自分の首筋に当てたりした人間は、『死』という主題を前にしたところで、神妙な顔をしないで済む。

啓蒙のジレンマ

啓蒙というのは抽象的だから、「教祖様~」みたいな人間を顔役にしてしまうのが、一番手っ取り早い。「斎藤一人」教みたいな。しかし、そうするとどうしても宗教色が強くなるため、信者ではない人には抵抗がある。*1私がしたいのは、そういう啓蒙ではない。


新興宗教紛いではない啓蒙は、非常に難しい。何しろ、インターネット上などでこの記事を見つけるような人は、元から左翼的だったり、主体的に情報を集めている人だったりするからだ。


勿論、そういう人達と私の考えを共有できるのは良いことだが、私が本当に考えを届けたいのは、何も知らない、盲目的に安倍を信仰しているような人であり、平気な顔をして差別発言を垂れ流す、人間の屑だからだ。

しかし

そう上手くはいかない。そもそも、こんな弱小ブログでは拡散力に限界がある。やはり、せいぜい少数のまともな人達に届いて終わりだろう。


もし仮に、奇跡的に右翼ミソジニーが閲覧したとしても、「北朝鮮工作員」だのと言って終わりだろう。*2

*1:斎藤さん、すみません。でも、もはや信者ビジネスとしか思えない。

*2:養老孟司氏の逆だ。(それをきく人達にとって)「よくわからないことを話す、偉いらしい人」は神格化され、「よくわからないことを話す、偉くないらしい人」は卑下、または無視される。