お知らせ 卑屈の辞典について

この度、婚約致しました。
じゃなかった。


とりあえず死なないことにしました。


これからどうなるか、自分にもわからないけれど、とりあえず生きてみるのも悪くない。そう思えるほどには、ワナゴがした考察に効果があったのでしょう。


卑屈、と自虐するのも変な気がして、「ワナゴの辞典」に改名します。過去記事の題とカテゴリーは、面倒だから変えません。自分自身を「卑屈」と呼んでいた時期があったことも、重要な事実である気がするから。


そこで、(ワナゴにとって)記念すべき、「ワナゴの辞典」第1回、
「ワナゴの辞典 自己啓発」です。


その怪しい本には、「新しい視点」「新しい考え方」「新しい習慣」がある。


自己啓発本を読んでいる人は、画一的な視点(性差別、生産性差別)、古い考え方(男尊女卑、儒教、自己責任論)、古い習慣(誰かが決めた、何故か「偉い人」を、何も考えずに神格化し、誰かが決めた、何故か「卑しい人」を、理由もわからず貶める、など
)がある。


それらが原因で、自己啓発本を読んでいるのに、その本には「自己啓発本を読むに至るまでに、精神を病む過程」の一切が省略されている。


筆者は、衝動的に図書館に行き、自己啓発本を九冊借りたことがある。結局、そのときに借りた人間失格のみを読んだ。


今思うと、そのときワナゴはかなり不安定だった。安定を求めていた。「生きようと足掻いた末に待つのは、自死である。」という結論を出したのに、必死に生きようとしていた。自己啓発本を読み漁っていれば、今の自分は生きていなかったかもしれない。


何か、「この本を読めば、劇的に自分が変わる」という無根拠の期待があった。それは「どう足掻いたところで、私は死ぬしかないのだ。」という絶望や諦めを誤魔化すための、最後の反動形成だった。


自己啓発は人の弱みにつけ込む。「これさえすれば、あなたは大丈夫。」と神が言うからだ。


自己啓発は宗教に似ている。それは、信仰する人間を強力に支配する。また、安心を与える。「これさえすれば、私は大丈夫なんだ!」それが安全か否か、信者は知らない。