武装解除

私がこう呼ぶそれは、世界平和にも似ている。軍備拡張の末に平和は無い。


いたずらに緊張が高まり、戦争の引き金となるだけ。もし仮に、軍拡の末に「戦争」がなくなったとしても、その状態は「平和」ではない。


正確にはそれは、軍事における主権の独占であり、また独裁する国の緊張は消えない。



何が言いたいのか?他者を攻撃する者の末路は、破滅である、ということだ。


大抵の場合、「暴力」は抑圧から生まれる。


「男」に勝てないから、「女」を攻撃する。そして彼は言うだろう。「誰でも良かった」と。


また大抵の場合、上記の例のように暴力の原因は抑圧され、記憶の奥深くに葬り去られているからたちが悪い。


私は一時期、妹に暴力を振るっていた。性的な暴力は加えていないが、それでも、十分に罪だろう。


その罰はわりと直ぐにやって来た。私にとって暴力とは恐らく、「可愛い」と言われる(男らしくない)自分が、男たる根拠だったのだろう。


純粋な、「誰かを傷つけたい」という欲求による暴力ではなかった。そんなものが存在するのか、私は知らないけれど。


自身がなぜ、衝動に駆られて暴力を振るうのかを考えることもせず、ひたすらに暴力を振るい続けるとどうなるか?まず、精神がもたない。


劣等感による破壊衝動は、「家庭内暴力」から更に内向し、「自己内暴力」に至った。


私は訳もわからず硬いタイルを殴って手の甲を真っ赤にし、また訳もわからず髪を掻きむしり、唇を噛んだ。いずれも、自傷行為である。


やがて自己内暴力は更に内向し、「自己破壊衝動」へと至った。私は死にそうになった。(男らしさを強いる男尊女卑に殺されそうになった。)


何度も死を思った。駅のホームに立てば、電車が迫る線路に吸い込まれそうになり、高所に居れば、危うく遥か下にある地面に飛び込みそうになった。


私はナイフを持ち歩かないことには、正気を保てなかった。少ないときには2本、多いときには7本の刃物を携帯していた。


「私はこのナイフで、いつでも死ぬことができるんだ。」という安心感が唯一、死の淵で私を生かし続けた。今思うと異常な精神状態だが、当時の私にとっては、それが唯一の癒し、救いだった。


ナイフを首に当てた。少し痛いくらいに。このままナイフを引いてしまおうと思った。でも、全体主義に殺されるのは癪だ。私は最期の賭けに出た。


(今では、「最後」だが、そのときは、文字通りそれが「最期」だと思っていた。)


私は私の人生を考えた。出生から今まで、すべて。私は運良く、抑圧されていたものを明るみに出し、特に強化されたバイアスをメタ認知することによって、何とか生存した。


自殺を思い、哲学に生きる道を探したが、結局自殺してしまった人もいる。私は本当に、運が良かった。


運良くたまたま生き残ってしまった、死に損ないの私には、運悪くたまたま死んでしまった、生き損ないの人たちが置かれていた極限状態を伝える責任がある。少なくとも私は、そう考えている。


だから、自殺に纏わる偏見を払拭する方法を模索しているところだ。(ファクトフルネス、みたいに。)


(希死念慮と思春期の煩悶の混同、「仕事でミスして部長に怒られちゃったよ~」と言って落ち込むだけの人と、自殺志願者の混同。=「悩むときもある。新しいことを始めろ。死んだら負け。」というような、無責任な言葉、助言を装った脅迫、自殺者への侮辱。


他にも、書ききれないほどある。一度も死を思ったことがない不健康な人たちには、なぜか、自殺(志願)者のことが圧倒的に、「見えていない」。私は、透明化されている彼ら彼女らの苦悩、いや、苦痛、終わりの見えない病を、可視化したい。この国が生んだ差別を、全体主義の現状を届けたい。


言い訳のしようがない、自殺志願者の現状を突き付けられたとき、彼ら彼女らは何と言うだろう。)


少し脱線したから本題に戻る。


人間は他者を攻撃するとき、その攻撃の主体は、相対的に不安を抱く。少し大げさに言えば、「あいつは俺を殺そうとしているかもしれない。」と考えるようになる。


詐欺師が人を信じられないように。


※これは殆んど心理的素人の、素人考えで考えついた突飛な理論であるから、無視してくれて構わない。


「誰かに攻撃されるかもしれない。」一度でも他者を攻撃した人間は、その恐怖に蝕まれてゆく。(ここから閲覧注意。)


力学的に考えて、押された物体が、押したものを押し返すところを想像してほしい。化学的に考えて、不安定な一酸化炭素が、安定しようとして酸素と結合し、二酸化炭素になるところを想像してほしい。


科学の世界では、状態は常に均衡を保つように変化する。


「誰かに攻撃されるかもしれない恐怖」はあるが、実際に誰かに攻撃されたことがない人間が、最も手っ取り早く「安定」するためにはどうすればいい?


自分で自分を傷つけてしまえばいい。そうすれば少なくとも、「被攻撃の恐怖」と「(自分に)攻撃されている」現実は釣り合う。


しかしこれで終わらない。妄想は肥大化し続ける。


壁を殴っていた少年は、いつしか頭突きをしている。頭突きをしていた少年は、いつしか手首を切っている。手首を切っていた少年は、いつしか、失血死している。


最も手っ取り早く、「生きる」には?武装を解除することだ。他者を攻撃したことによって、自らが自らに課した呪縛は、他者を攻撃することをやめることによってのみ、解除される。


「男らしくない」自分に劣等感を抱える人間の苦しみは、彼が性差別を認識するまで終わらない。


いくら「男らしく」なるために努力したところで無駄。逆効果かもしれない。彼は努力すれば努力するほど、「男らしくない」ところにフォーカスし、苦しみを加速させ続ける。


私は自己責任論を好まない。全体主義を根拠に主張されるそれは、この世から滅びればいいとさえ考えている。というか、この世から滅ぼしたい。


しかし、一つだけ、確実に言えることがある。あなたが今苦しんでいるなら、いくらそれを誤魔化そうとしても無駄だ。あなたは、あなたを苦しめている、その原因を直視することによってのみ、解放され得る。


(それが可能か否かには、人が置かれた状況が大きく影響するため、直視することができたとしても、それはあなたの手柄ではないし、直視できなかったとしても、それはあなたの責任ではない。


これは重要だ。これを勘違いしてはいけない。)