聲の形

聲の形

聲の形、という物語がある。私はどうしても、伊坂氏の著作・砂漠で言う「鳥瞰型」であるから、俯瞰して物語を見た。


そのとき気付いたあることを、ここに記す。


最初の方の場面で、「いじめ」が描かれる。これを垣間見る傍観者でありながら、そのいじめに対して直接責任を負わない私たちの殆んどは、「かわいそう」と言うだろう。まるで他人事であるかのように。


私は断言する。聲の形を「見て」かわいそう、と感じた人は、絶対にいじめの加害者か傍観者になる。いや、そう感じた時点で、すでに傍観者ではある。特に、所謂「一軍」の人はいじめるだろう。


もし仮に、あなたが、私がいじめのある教室にいるとしたら?どうだろう。「かわいそう」と思って終わりか、あわよくばいじめの加害者とならないと、私達は断言できるだろうか?

いじめって何?

また、大今氏の凄いところは、いじめを、「絶対悪」としていないところである。

「退屈は敵だ。」


石田はそう言った。いじめさえも、彼にとっては雑談やゲームと同じように、只の「暇潰し」だったのだ。


更に凄いのは、いじめの加害者であった石田が、被害者になるところだろう。これもまた、いじめに絶対的な「悪」など存在しない(この国の人権を侵すのが常態である文化そのものに問題がある)ことを示している。

じゃあ、どうする?


あなたの感じたことが答えです。「聲の形」という物語は、あなたにえもいわれぬ余韻を残してくれること請け合いである。