平等を実現する概念 ~社会学者を夢見る高校生はユートピアの夢を見るか~

それは「ニッチ」。


(ロマンチックだから、私は量子論を好む。それは科学的が考え出した夢だ。というわけで、それっぽくしてみた。しかし私はまだあの本を読んではいない。)


生態的地位
生物の種が、生息する環境において果たしている生態的な役割あるいは地位。具体的には、すんでいる場所、餌や捕食者(天敵)の種類などが問題になる。一般に同じニッチを同時に異なった種が占めることはできないので、時間や空間をすみわけたり、餌を食いわけたりすることによって共存が可能になる。これをニッチ分化と呼ぶ。
(垂水雄二 科学ジャーナリスト / 2007年)


コトバンクhttps://kotobank.jp/より引用


まあ、厳密に言えば間違っているが、ここでは生態的地位=「ニッチ」だと考えてください。


先ず、「平等」とは何か?(その前提は平和であるのだが、それから説明すると長い。一言、「広義では、精神的平穏を指す」とだけ。)


(精神の自由とか、様々な考え方があるが、ここでは「公共の福祉」という概念を用いて説明する。)


端的に言えばそれは、「棲み分け」である。


(抽象的な概念をわかり易く説明するために、ここでは生物学的な説明を用いる。)


同じ生物を二匹、同じ空間に閉じ込めて、一匹がもう一匹を食い殺すとき、それは「平等」と言えるだろうか?


この場合、「強い」方の個体が勝つ。つまり、「弱い」個体には初めから、「生存権」など無い。


これが自然界、所謂「弱肉強食」である。


これは一見すると、自然の摂理であるかのように思える。しかし実際はどうだろうか?この強引な理論を、人間社会にも適用してしまってはいないか?


まさしく、それが罷り通っているのが、「クールJapan」である。これは勿論皮肉である。クールJapanとか、ただただ寒いわ。


「弱肉強食」理論からわかるように、「(生存)競争」があるところに平等は無い。


日本はどうだろうか?(私はもう既に150年以上前の、あの忌まわしい維新で、この国は先進国たる資格を失ったと考えているが、ここでは、「日本=先進国」であると仮定する。)


先進国と呼ばれる国の中で、こんなに救いの無い制度は日本くらいである。これほど苛烈な「受験」制度は日本にしかない。


(他の受験が活発と言われる国は、教育に、自国の将来に投資している。奨学金に対して殆んど補助が出ないにもかかわらず、受験で殆んど人生が決まる出来レースをしているのは、この後進k…日本くらいである。)


日本における三大宗教の内、最も信者が多く、その増加も目覚ましいのはやはり、「自己責任論」教である。


日本においてこれは、明治の軍国主義に開発され、その独裁国家の官僚に「障害者は御国の為に玉砕することもできない」という、とんでもない自己責任論的発言をさせるほど、汚染の速度と深度において驚異的なミームである。


そして時代錯誤のある政治家が、「この国を取り戻す」とか言ってくれたおかげで、再燃してしまった。一度は民衆の民主主義によって封じ込められた全体主義が、蘇ってしまった。


今、自公が積極的に布教活動をしている。その甲斐あってか、安倍にべったりの芸人、松本は「死んだら負け」であると、見事に戦時中の官僚と同じく自己責任論に汚染された。


また、彼の無駄に大きい影響力のおかげで、恐らく自己責任論は加速した。こうして、日本はどんどん、そのブレーキを破壊しながら、勝ち目が皆目無い戦争へと突き進んで行く。


前置きが長くなった。つまり、「全体主義的な文化下では、平等は生存し得ない(この国の平等やそれによる民主主義は、全体主義によって破壊された)」ということ。


この国に平等は無い。この国に民主主義は無い。それに気づかない人は、自滅するこの国と共に滅びるしかない。


(「この国の民主主義は、形だけで良いんだ。」新聞記者ホームページhttps://shimbunkisha.jp/、予告編より引用。)


なぜ、「全体主義下に平等は無い」のか?その鍵は、「競争」という言葉にある。


全体主義的な文化において、人間の多様性は否定される。「良い大学、良い企業、良い役職こそ是である。」それが罷り通っている。恐らく、「何が」「どう」、「なぜ」『良い』のか、それを論理的に説明することができる人はいない。


人々は、「なぜ」そうするのかもわからないまま、競争を続ける。そんなとき、最もわかり易い指標は「数字」である。


この国は資本主義であるから、数字は「少ないよりも多い方がいい。(これもまた恐らく、なぜ何が「良い」のか、私たちは知らない。)」


人々はかつて、「物」を所有していたが、今人々は、「値段」を所有しているのだ。(別役実の著書、「当世悪魔の辞典」値段の頁より引用。)


また、「何人の異性と交際した」とか、「試験は何点だった」とか、「偏差値なんたらの大学を卒業した」とか、そういうつまらない価値観が蔓延する。


全体主義下、価値観は強者のものに塗り替えられる。(ということは今は、中年男性の所謂「健常者」で、性的マイノリティでもない人(すべてにおいて強者である人間)、つまり、「おじさん」の価値観の時代…道理で評価基準がつまらない(精神が貧しい)のか。)


この国は、「平等」だと謳われる。「平和」である、とも。人々は口々に、「日本は良い国だ。」と言う。


この国において、平等も平和も糞もない(それらは既に破壊された)ことは、過去記事で散々説明してきた。


しかし、「かのような人格」である日本人は、「日本はまだ大丈夫だ。」という希望的観測による幻想から覚醒するまでは、体制に従順だ。


だから、揃いも揃ってまんまと、「君は自由だ。」という言葉に侵される。


自己責任論は、人々が抱える問題を透明化する。現実をゲームにしてしまう。ちょうど、「現実」を一般相対的理論とするなら、「自己責任論(じじいが拝む幻想)」は特殊相対性理論だ。それはアインシュタインのエゴと言っても良い。


(自己責任論は未だに、「特殊」の域を出ない。)


自己責任論は、「間違った平等」を生む。(ワナゴの辞典、「平等」の過去記事を参照。)


また、この国は全体主義が加速する時代に位置しているから、勿論「職業選択の自由」など無い。


人々は、全く不平等な、格差が拡大し続ける社会で、「全員が初めから、無条件に、必ず、絶対的に平等である。」という、ゲームのような前提条件から、弱肉強食の、つまり弱い(親の年収が低い)者には、殆んど最初から勝ち目が無い、その上つまらないゲームをすることを強いられる。


(おじさんは恐らく、頭が既に逝去して只の飾りになってしまった。だから彼らには、「相対性」という概念が理解できない。)


これが、この国における閉塞感、即ち「生きずらさ」の正体である。


(繰り返し言うが、「平等だから競争しろ」という理屈は成立しない。せいぜい日本程度の小国の国家で強制採決するのが関の山である。


「平等だから競争できる」が正しい。「競争を強いられる社会」には、決して平等は存在しない。ちょうど、にはのように。)


ユートピア」の話は未来記事(ワナゴの辞典 ユートピア)にて。長くなったので一区切りする。