絵を描く

前は苦しかった

一神教パラダイム

私が高校一年生だった頃の美術で習った、日本と西洋の美術史を思い出した。西洋の絵画には一点透視図法や左右対称など、明確な美的基準がある。そのため、写実的な描写が発達してきた。


しかし、これは葛藤*1を生む原因にもなってしまう。

「写実的に描かなければ」なのに「描けない」。→描かない

理性が崇拝され、写実的に描くのが美しいとされる文化で、社会に属する人間は、あるパラダイムに囚われる。それは「写実的に書かなければならない」という呪縛だ。


しかし、素人が美しい絵を描くことは難しい。しかしその間にも、その呪縛は人を悩ませ続ける。そうして、まだ大して描いてもいないのに筆を置いてしまう。描かなくなる。私がそうだった。

face to reality

美術の授業で自画像を描くという現実に直面して初めて、私を苦しめていたものの正体に気づいた。今では絵を描くのが少し楽になり、前より積極的に観察して描いている。そのおかげか、画力も上がった。

辛いだけの苦しみは要らない

例えば、私がしていた自己精神分析メタ認知は、意味がある苦痛を伴う行為だと考えている。かなり参ってしまうから、オススメはしない。だが、今にも自殺しそうで、かといって何ができるわけでもない、お金も無い、という人が、やむを得ず行うのは構わないと思う。私がそうだったから。*2


しかし、絵を描くことについて私が感じていた苦痛は、積極的な行動を阻害する上に、乗り越えて何か新しい視点が得られるわけではない。そういう苦痛を感じ続ける必要はない。さっさとメタ認知してしまおう。

*1:conflict

*2:たぶん、自己精神分析によって自殺することはない。恐らく実際には、考え詰めて自殺する人は少ない。自殺するとすればそれは、もとからあった自殺願望が原因だろう。自己精神分析が終わらなくても、自分で自分の痛いところを抉る苦しみが続くだけだ。