やがて君になる
第6巻を読んだ
アニメを見て5巻までの内容を知っていたから、6巻を買った。
共感する
侑に
私は生まれつき無感情というか、大げさに振る舞うことが苦手だ。そこは侑に共感する。初恋は未だ無い。恐らくこの先にもないだろう。
*1私は臆病だ。誰か大切な人ができた時に、その人を失うのが怖い。自然消滅でも死別でもどうせ別れがあるなら初めから交際しなければいいとさえ思う。一人で生きるには、この世界は寒すぎるけれど。
それ以前に、愛する人ができるのが怖い。片思いでも。誰も愛さなければ、私がどう振る舞おうが問題はない。しかし、愛する人を傷つけたり、失望させたりするのが怖い。
そんな喪失を、責任を私は背負いきれない。
七海に
私が中学二年生の時のある事件から、私は人畜無害を演じて来た。俺TUEEE系の主人公ぶっているのではない。あどけない少年を続けてきた。いや、今思えばずっと演じ続けてきた。生まれた時から。
クラスのリーダー格に気に入られる
私はなぜか、クラスのリーダー格に気に入られた。小学生だった時から、中学生の時も、高校でもずっと。リーダー格というのは、要は声が大きい馬鹿な男子*2で、小学生ならスポーツ、高校生ならまとめ役ができる者のことだ。
好都合だった。そのおかげでいじめられることはなかった。リーダーが私の盾になった。その権力を以て。*3
しかし、「リーダーに気に入られれば安全」ということは、「リーダーに気に入られなければ危険」ということだ。だから、私はずっと演じ続けてきた。生きるために。たぶん無意識に。
不安定な地位
私は遅刻も忘れ物も多い。*4かといって明るい性格でもない。だから、恐らく無意識に同情を誘っている。
この国の合理は死んだから、もはや理性によって何かを判断する人は居ない。平等など無く、神格化するか卑下するだけだ。卑下する対象に対する反応は、3通りにわかれる。①無視。存在を認めないということだ。②反感。嫉妬とか羨望から生まれる反応だ。③同情。哀れみなどから生まれる。私はこれを誘導しているのだろう。
だから、本来なら最低な評価を受ける筈が、愛されキャラで通っている。愛されというか、あどけない、責め立ててはいけない雰囲気で。もう疲れきった。やめようかな…
母の前ではフェミニズムに理解のある息子を演じて来た。妹の前ではよき兄を。私はいくつのペルソナを着ければいいのだろう…
第7巻も楽しみ
もう買ってあるので、明日読む。11月発売予定ので最終巻も読むつもりだ。
「社内恋愛あり得ない」
外国の人が日本に来て驚いたこと上位10個
社内恋愛あり得ないという回答が、やけに印象に残っていた。これは日本と西洋の共同体、更には個人についての概念にかかわってくる。
日本と会社
先ずは個人の概念について。はっきり言って、この国の個人は自立した存在ではない。その人は共同体に依存している。立場に名前がついているのが証拠だ。
先輩/後輩
これらの言葉は、儒教の概念から来た。儒教とか朱子学などは、学校では江戸時代に幕府が広めたことになっている。しかし人口の90%以上を占める百姓は、そんなことなど全然気にしていなかった。権威を全く尊敬しない、性差別も今よりはない、人と人として接する文化があった。平等が、自由が、幸福があった。
それを破壊したのは明治政府だ。江戸時代にはそれなりの地位を築いていた穢多・非人*1の職を剥奪し、新平民という実質的な差別階級を用意した。それから、天皇を現人神として政府*2をその権力の執行者に据え、前近代の王権神授説的な論法で人々を洗脳した。
小学生に「天皇陛下万歳!」と言わせ、愛国心を刷り込む子ども用玩具を量産した。*3未だに天皇陛下万歳!と言ったり日の丸礼賛ソングを歌ったりしている人がいるのは気の毒だが、もうどうしようもないと思うので、どうしようもない。戦争で死ぬか、安倍の国家心中に付き合わされるのだろうが、私にはどうすることもできない。
本題に戻る。この国の文化は戦時中から何も変わっていない。ドイツは戦争から学び、二度と独裁者を生まないシステムを構築した。日本は学ばなかった。まあ、岸から安倍まで独裁が続くのだから、どうしようもなかったかもしれないが。*4
斯くして江戸時代の先進的な文化は死に、日本は前近代に戻った。悪い意味で。前近代にヒューマニズムなどない。この国の個人は、この国に依存している存在としてしか扱われない。だから、日本人にとって会社とは学校と同じようなもので、「行って当たり前」。*5日本人にとっての社内恋愛は、隣人と恋するようなものだろう。
個人というものは、会社から役職を与えられて初めて立つもの。そういう考え方が、日本人の根底にはある。だから上司だの部下だのという言葉があり、会社での立場はオフィスの外でも継続する。
個人は共同体に依存する存在である、という考え方が個人の独立性を否定し、地縁や血縁などに依存しない、独立した個人どうしの緩いつながりを阻害しているようにも考えられる。
西洋と会社
これは短く済む。西洋の人にとって会社とは、ただ単に利益を得るための場に過ぎない。個人の存在意義はそれに依存しない。個人は独立した存在として認められているからだ。人権教育が進んでいるのが大きな原因だろう。
勤務外の人間関係
これは興味深かった。海外ドラマでは、定時が来て会社を出ると上司と部下の立場にあった人たちが、友人のようにフランクな口調で話し合う場面があるそうだ。端的に言えば、これが「社内恋愛あり得ない」理由だ。
恐らく厳密に言えば、「社内での」恋愛はあり得ないだけで、勤務時間外での社員との恋愛はあり得るのだろう。つまり『会社』という場は個人的な事柄とは切り離された空間であり、そこに恋愛感情は介入しない。逆に言えば、会社でなければあり得る。
こういう文化では、独立した個人どうしの緩いつながりが発生する。つまり個人が孤立することがない。私は、孤独を悪いものだとは思わない。しかし孤立は問題だ。それは自殺の原因にも成りうる。
緩いつながりとは、地縁や血縁、金銭的な利害関係などに依存しない関係のことだ。日本で強いて言えば、学生時代の同級生などだろう。これは精神的な平穏をもたらす。実際に、フラストレーションが軽減されたという研究もある。人間の根源的な社会性を満たすのだろう。
うつ病
気づかなかった
自分ってうつ病だったんだ
ということに、ある記事を読んで気付いた。google:自殺・からあげ
不思議なことに、気づかないまま精神を病むことがあるようだ。記事の内容にはとても共感した。私もうつ病を経験するまでは、「すぐに死にたいとか言う人の気が知れない」だのと言っていた。
簡単に「死にたい」だの「もう無理」だのと言う奴が嫌いでした。
それが今は軽々しく文字に起こせてしまうことに、申し訳なさが募るのでした。
これは青谷さんの曲、「40歳くらいで死にたい。」の歌詞である。私もこんな感じ。たぶん、この感覚は経験した人にしかわからない。
うっかり「ナイフを持ち歩いていると、たまに死にたくなることがあって危ないから、ボールペンに変えました。」と言ってしまったとき、私と同じ部活の部員である彼は「えっ!そんなに追い詰められてんの?」と言った。
私にとっては「追い詰められている」という感覚はなく、むしろ日常である。一番酷かった時期*1に比べれば、かなりマシな方*2だし。しかし、やはり自殺願望未経験の彼にとっては、驚きだったらしい。
緊張の受け方
体育
ヴォリボ*1をやったときの話。味方チームに無関心な私でも、少しは緊張した。その過去記事の、「緊張を溶かす」方法について
システマ
ネタにされがちな、「痛みを感じない方法」というやつに似ている。零距離戦闘術はシステマも取り入れているので、ウェーブから入る方法もある。
あの芸人は恐らく、あまりしっかり習わなかったのだろう。呼吸法も大事だが、それ以上に体の使い方が重要になる。
力を抜く
表現し難いが、なんというか、硬直せずに動き続けることが重要になる。打撃を受けたとき、筋肉が緊張していて体が動かなければ、打撃エネルギーはそのまま打撃を受けたところに吸収される。力の流れはそこで終わり、大きなダメージをくらう。
しかし、例えば腹を殴られた場合、腹にブラックホールができたように空間のねじれを体で再現すれば、受けるダメージを軽減することができる。例えが分かりにくいと思うので分かりやすく言うと、打撃を受けたところから、同心円を描いて周りの筋肉を伸長させる。
勘違いしている人が多いので訂正しておく。「システマしてるから痛くない」のではなく、痛みを軽減することができるのだ。
上級者になれば痛みを感じないほどに軽減することができるため、あの芸人は「痛くないです」と言ったのだろう。しかしどう見ても痛そうだし、痛みを軽減する受け方もしていない。ああいう人間のせいでシステマという合理的な方法の印象が悪化したのは腹立たしい。*2
緊張に身体性を与える
だいぶ話が脱線したので、本題に戻る。システマの受ける技術については長々と説明したから、もう十分だろう。あとは経験してみるしかない。
次に、緊張を受ける方法について。システマ的な受け方がわかれば容易だ。緊張に身体性を与えればいい。分かりやすく言うと、緊張を打撃と捉えてそれを受ける。
精神=身体
長くなりそうだ…また脱線する。「体→心、心→体」という俗説は有名だろう。身体は精神と相互に影響を与え合うとする説だ。しかし、このデカルト的な考え*3は、最新の研究に否定されている。
ここで論文を紹介してもしょうがないので、分かりやすい例えを言う。あなたは、心拍数を上げずに緊張することができますか?恐らく、そんな人はいない。精神的な活動は必ず、身体的な活動と同時に起こる。
理性崇拝者は、「いや、精神活動は脳で起きる。生理的な変化は脳から分泌されるホルモンの副産物に過ぎない。」と言うかもしれない。しかし、そうではないのだ。
腸と脳
一般的には、脳から発生する理性がその人の行動を決定することになっているが、実際にはそうではない。大脳の発達は、かなりの割合で腸に依存している。乳幼児の脳は、ほぼ腸の活動や腸内環境によって決まると言っても過言ではない。
また、大人になってからも、腸内環境は精神とリンクしている。*4うつ病は腸内環境*5にも左右されることがわかった。また、腸は第二の脳とも呼ばれ、脊椎に次いで多い神経細胞を持ち、迷走神経を介して脳と相互に影響を与え合う。*6
他にも、興味深い例は腐るほどある。食べたいものは胃のバクテリアによって決まるし、ある腸内細菌叢が失われると、それが食物アレルギーや花粉症、皮膚炎などの原因になることがあるらしい。
人格者の心臓を移植されて食の好みが健康的になり、慈善事業に積極的に投資するようになった人もいる。心臓には、脳のような神経ネットワークがあるそうだ。殺された人の目を移植されて、殺される光景と断末魔に苛まれた人もいる。
原初的な文化には、病気になった臓器と同じ部位の肉を食べると治るという言い伝えがあるのは興味深い。とにかく、脳というのはあくまでハードウェアであり、情報を入出力するニューラルネットワークに過ぎない。精神的な活動は脳によってのみ起こるのではなく、全身と同時にあるのだ。
違和感の位置を探る
また脱線したので本題に戻る。緊張やフラストレーションなどを感じるとき、必ず身体的な感覚を感じる筈だ。図星を衝かれると胃が痛くなったり、緊張するとお腹が下ったりするのはそのためだ。胃痛や下痢でなくても、必ず身体に違和感を感じるだろう。先ずはその位置を探る。
違和感を薄める
方法は何でもいい。システマのように受けても良いし、他の方法でもいい。*7私は違和感を感じた場所を真上から突かれたことを想像して、それを受ける*8。大抵、緊張しているときは肩が硬直して強ばっていたり、浮き足立っていたりするから、下に沈むような想像が私には合う。
凝りを解すために、零距離*9のウェーブの準備運動のように、肩甲骨を回すのも良いかもしれない。股関節のウェーブができる人は、それもいいだろう。股関節の周りには太い血管や筋肉があるから、有効だ。
メタ認知する
「ハエになったと思って自分を眺める」という方法が有名だ*10が、これは私の性に合わないから、私はただ単に自分自身や感情を客観視するようにしている。
やはりここでも、メタ認知は重要だ。緊張しているところを突かれたことを想像するには、先ず緊張している場所を確認する必要がある。
慣れればメタ認知すら必要とせず、反射的に緊張を解けるようになるが、初めのうちは未だ想像した方がいいだろう。
根本的な解決を
これはシステマの受け方と同じで、あくまで衝撃を軽減する方法だ。ダメージをほぼゼロにすることができても、私を殴り続ける人が居なくならない限り、攻撃は終わらない。それと同じで、緊張をほぼ完全に誤魔化すことができても、緊張の原因は消えない。これは解消であって解決ではない。
自分の精神的平穏を脅かす問題を発見し、それを解決する必要がある。これはあくまで応急措置だ。問題を解決するまでの時間稼ぎに過ぎない。
*1:volleyball
*2:大衆も大衆で、システマについて無知だからといってあの芸人の失敗をやり玉にあげ「システマは使えない」と言うのは、あまりにも愚かというか、日本人的だと考えている。知らないなら調べればいい。←お得意の自己責任論が、なぜ大衆自身に適用されないのか。それが自己責任論の無責任の証拠だと考える。 学校というシステムにも問題があるように思う。何かわからないことがあったとき、能動的に調べたり考えたりする習慣を、日本の学校制度は奪う。アクティブラーニングは否定され、先生の言うことが正解になるからだ。←また、先生にやれと言われたことを学ぶ。心理学や社会学に興味があっても、受験制度のためにそれは封印される。 単純に、日本人が権威に弱いからかもしれない。あの芸人の功績については私は詳しくないが、知名度云々は別として、無知な大衆のため前にいるシステマ初心者は一つの権威だった。システマは知名度が低かったから、知っている人が少ないのも原因だったかもしれない。今では悪い意味で有名になってしまったけれど。
*3:「我思う、ゆえに我在り」に代表される、自我=精神と身体=存在とを分離させた考え方だ。本当は、自然と人間を完全に分けることができないように、―人間は植物に依存する存在だ―精神と身体とを分けることはできない。
*4:腸内環境が精神に影響を与えるのではない。
*5:一部の細菌
*6:脳はフィジカルな物質=身体である。精神ではない。
*7:大便を排泄するようなイメージはオススメできない。筋肉が緊張してしまう。
*8:「受ける」か「受け流す」かで迷ったが、物理的には流していないので前者を選んだ。「ほぼ吸収する」という表現が最適かもしれない。
*9:zero range combat system
*10:観察する自己に具体的な身体があった方が分かりやすい人の方が多いのだろう。
破滅へと至る路
久々の長い考察
たぶん、ものすごく長くなる。この考察は多くの人に当てはまるかもしれない。しかし同時に、自分自身の問題でもある。まあ、このブログにある記事のすべては私のために書いたものだ。「お裾分け」のような感覚で公開している。
正直、アクセス数とかはどうでもいい。それは更新が不定期であることからも、極端に長い、また極端に短い記事があることからもわかるだろう。これは、「万人がこうなんだ」と主張するものではなく、少なくとも私はこう考えるという、一つの見解である。それをご理解頂きたい。*1
①同一性*2への信仰
同一性とは、その人が何であるかを決定付けるものであり、同時にその人がその人であるが故に表れるものでもある。つまり、その人がその人である瞬間に、その人と同時に『すでに存在している』ものである。意識する/しない、表出の有無に関わらず、既にあるものなのだ。しかし、その本来の意味が損なわれているように感じる。
前近代、現代と同一性
前近代は絶対王政が敷かれ、個人の同一性は軽視されていたが、現代では民主化が進み、個人の同一性は尊重*3されている、ことになっている。だが、私は現代よりも近代の方が、よほど自由だったと考えている。
何も、「前近代に戻ろう」と言っているのではない。独裁的という意味では日本は前近代的である。安倍がいるから、戻すまでもなく前近代だ。そうではなくて、少なくとも個人の同一性について言えば、前近代の方が自由だった。
前近代と同一性
生まれた瞬間から、その人がどう振る舞うのかは決まっている。生まれた家に、更に正確に言えば家の身分に従って振る舞えばいいのだ。つまり同一性とは「すでに決まって」おり、悩むような事柄ではない。その分、多少は自由度が高かったように思う。
確かに、身分の拘束はあっただろう。日本では戦後時代や江戸時代前期などで上流階級の人間に生意気な口をきけば、その人の肩身は狭くなる。しかしよほどのことをしなければ、困ることは無い。その程度は生活の中で自然と身に付くことだ。
逆に言えば、「それ以外」の領域―同一性と呼ばれるもの―は自由になるのだ。特に仲間内でなら、自由に議論をたたかわせることができただろう。
②自己の同一性への不安
所謂、「アイデンティティークライシス」とかいうやつのことだ。ただ、日常的にそれを経験することは少ないだろう。これはあくまでも、軽度なもののことを言う。*5ヒエラルキーの中で、許される程度の同一性を主張する。それは大きなフラストレーションを伴う行為だ。また、同一性が身分にかなっているか否か、不安にもなる。
フラストレーションや不安の範囲がある閾値を越えると、人間は大きな、そして証明不可能なものに縋ろうとする。その対象は神だったり、天皇だったり、イキり文化だったりする。いずれにせよ、それはその人が持つステレオタイプやバイアスに依って形成される。
③バイアスを強化し、それに依存する
カトリックの家に生まれた人なら、その人の同一性を依拠する対象はイエスかもしれない。戦後ではなく今の保守的な家に生まれた人なら、それは国家神道や天皇かもしれない。2ちゃんねるにばかりアクセスするような男なら、彼はイキり文化に依存するかもしれない。
依存する対象はいくらでもある。どこにでもある。無いならつくり出すだろう。ある意味では、存在しない何かの力に身を委ねている時点で、偶像崇拝にも似たものである。
バイアスを強化し、ステレオタイプを偏重し、それを固定する
カーストとか同一性とが、気になることが多すぎて疲れた時、どうすれば楽になれるか?答えは簡単だ。「人の真似をする」、ただそれだけ。神格化したものに依存するという方法は、流行っているらしい。姑息だが容易であるからだろう。
特に、人は余裕が無い時に神に縋る。進化論を信仰する生物学者が無神論者でも、砲弾が飛び交う最前線で生きる兵士に、神を信じない者は無い。「日本国」という、土地で線引きされた偶像を崇拝している人があまりにも多いのは、アベノミクスが失敗して経済的に、自民党によって文化的に、多くの国民に余裕が無い証拠だ。*6*7
生活にも、そして精神的にも切羽詰まっているからこそ、バイアスはより強化され、固定される。日本人のバイアスは今、かなり危険な領域まで強化されているだろう。当たり前なことを当たり前に認識している人が、あまりに少ない。殆んど居ないと言っても過言ではない。
④強化したバイアスによって、時間が汚染される*8
所謂、「時間汚染」である。はっきり言って、③から④への過程が最もよくわからない。まあ、ここは「なんとなく」でクリアーする。時間に対する焦りが不安や緊張から生まれるのは、わかると思う。バイアスは、そういう不安や緊張を増強することがある。バイアスは間接的に時間を汚染している。
時間が汚染されているとき
時間をとても短く、または長く感じる。長い時間も、有意義なものではなく、「ただただ長い」だけの時間。私は自殺未遂が酷かった時などにこれを経験したことがある。数ヶ月があっという間に流れた。「流れた」と表現することしかできない。本当に一瞬だった。しかしその時間の只中にいるときは、とてもとても長く感じた。この時間は永遠に終わらないかもしれないとさえ思った。
⑤終わりの見えない時間の中で、終わりを求める
自殺というのは、積極的な行動ではない。むしろ、やむを得ない行動である。遮断機が降りた線路の前で、踏み切りのサイレンが鳴る中、電車に吸い寄せられる。特急列車が通過するとき、ホームから飛び降りそうになる。階段を上っているとき、窓から飛び降りる自分の姿が浮かぶ…そういう感じ。
自ら意図して死のうとしているのではなく、体の方が自然に動く。私は幸か不幸か、今も生きている。何か一つでも違ったら、私は死んでいただろう。
*1:社会的なミームが個人に与える影響を認識していない、「子の問題はすべて親の責任だ」とでも言うような、どっちもどっち論者が、「ネタだから本気にするな」だのとイキり文化を正当化するのと同じようで嫌だから、一応断っておく。私は、この記事があなたに全く影響を与えないとは考えていない。少なくとも、主語を大きくして言っているのではないということを、把握しておいて貰いたい。
*2:identityと呼ばれることもある。「個性」とは似て非なるものである。ここでは同一性として扱う。
*3:私はこの言葉を嫌悪しているが、皮肉を込めて使う。
*4:所謂「イメチェン」をする人がいるから、階級は固定されていないと勘違いする人もいるだろう。しかし本当に底辺の人間は、イメチェンしようなどと考えることすら無い。イメチェンしようか迷っている時点で、その人はそれなりの階級にあるのだ。
*5:軽度だが、深刻である。
*6:「私はこの国のために頑張っている。障害者は死んでも構わない。」と言うとんでもない人がいることがそれを示している。本当に今の日本は、戦前のように危うく、脆く、窮屈だ。また、残念ながらとんでもない人の方が多数派らしい。こうして多様性が失われて行き、この国は滅びるのだろう。
*7:少なくとも日本人は、南からやって来た琉球民族(→アイヌ民族に繋がる)とユーラシア大陸から来た渡来人、そして先住民族でできている。だから、遺伝的に100%純系の日本人は存在しない。にもかかわらず、「在日は国へ帰れ」と言う人がいる。単一民族神話の成れの果てだ。
*8:時間汚染とは、未来のことが気になっている状態など、「今」に注意力が集中していない時のこと。
グラン・ヴァカンス 廃園の天使Ⅰ
- グラン・ヴァカンスの衝撃
- 『グラン・ヴァカンス』
- 描写
- ゲストの暴虐、ランゴーニの苛虐*2
- 「癒し」としてのジョゼとジュリー
- 「いつか、一緒に死のう。」
- 「君を殺してあげる。」
- ジュールは新たな旅へ
- 以上が大まかな内容
- どこまでも残酷で、どうしようもなく美しい
- 感想
グラン・ヴァカンスの衝撃
私はAlter Egoというゲームをやっている。「やっている」と言っても、ドグラ・マグラ以外クリアし、すでに百日のログインを終え、惰性とエスへの罪悪感で続けているだけだ。
しかし、そのゲーム内で紹介された『グラン・ヴァカンス』という小説に興味を持って、いや、前に彼女に薦められた本を読んでいなかったのに「読んだ」を選択した罪悪感によって、図書館に赴いた。
『グラン・ヴァカンス』
とにかく凄かった。殆んど半日で読み終えてしまった。「どこまでも美しく、儚く、残酷な夢」のような光景だった。そう、それは確かに「光景」だった。私は文字を追いながら、その光景を見ていたのだ。
ゲストの暴虐、ランゴーニの苛虐*2
グラン・ヴァカンスは、高所得者が日頃の鬱憤を晴らすために用意されたリゾートだ。AIはゲストに恐怖し、また依存している。作中のエピソードは凄まじい。思わず目を覆いたくなる。嗅覚を捨てたくなる。匂いは描写しにくいが、圧倒的なリアリティを持った虐待は、匂いさえ感じられる気がする。
ランゴーニの殺し方は、些か非効率的であるように思えた。西の区域を〈蜘蛛〉に襲わせたのは、苦痛の「質」を高めるためだろうから、それは効率的だった。後半、やっと理解できた。ネットを罠として使うには、強烈で鮮明な「苦痛」が必要だった。だから彼らは、AIたちを敢えて苦しむように捕縛したのだ。
「癒し」としてのジョゼとジュリー
AIたちは、ゲストの加害に耐える必要があった。「接待」の苦痛でアイデンティティーが崩壊したら、夏の区界は成立しないからだ。AIたちはゲストの虐待をジョゼに話し、性的な癒しをジュリーに求めた。しかし、ジョゼとジュリーの苦痛を癒し、和らげる者は、誰も居なかった。
「いつか、一緒に死のう。」
ジョゼとジュリーが交わした約束だ。手先が不器用なジュリーが不恰好な「鯨」を、ジョゼの弟と、そしていつかの彼と彼女の墓としてつくった時、二人が誓ったのだ。二人の苦痛を、二人で終わらせよう、と。
「君を殺してあげる。」
ジュールがジュリーに言った言葉だ。彼が彼女の「父」のロールを借り、スウシーの頭部を抱えてキスをした時、彼が彼女に捧げた覚悟だ。そして少年はついに、ゲストではなく「ジュール」として、その言葉をジュリーに放った。
ジュールは新たな旅へ
彼は小舟に乗り、他の区界へと漕ぎ出した。「鳴き砂」、そして「硝子体」を運んで来る波に逆らって。彼はジュリーに誓った言葉を、どうやって果たすのだろうか…
以上が大まかな内容
本当に大まかだけれど、これが粗筋だ。ゲストがヴァカンスを「満喫」する様子や、ランゴーニの残虐なやり方には不思議な質感と迫力があるので、是非読んでみて欲しい。たぶん図書館にあると思う。
どこまでも残酷で、どうしようもなく美しい
大事なことなので二回言いました。行われている行為は本当に残酷だ。しかし、ただ血生臭く残酷なのではなく、どこか美しい。血みどろの生肉が乳白色のヴェールで被われているような感じ。
感想
やたら長いが、その長さを感じないほどに興味深い物語だった。儚く、切ない要素もある。一つ一つのキャラクタが夏の区界で果たしている【役割】を知ると「AIだなぁ…」と思うが、AIたちの感情描写が細かいため、思わず「人間?」と首を傾げる。そんな不思議な話。
手当てとレイキ
細やかな驚き
数日前の記事だが、In Deep 地球最後のニュースと資料 というサイト*1で||https://indeep.jp/now-reiki-is-reaching-the-top-hospitals-in-us/||この記事を読んだ。「レイキ」療法についての話だ。私は合気道を習ったから、レイキの「気」という言葉に思い当たる節がある。
気
気というのは、様々な「気」だ。元気、病気、陽気、陰気、電気…人間にも勿論、それは備わっている。一部の合気道を修練した人間は、体のある部分に注意を集中させることによって、僅かながら「気」を実感することができる者が存在する。私もその一人だ。
気を実感する方法
大層なことではない。私は手でやったことしかないから、手を例に出す。意識を手に集中させると、指先に静電気が走り続けるような感覚になる。痛みは無い。「パチパチ」する感じだ。「ビリビリ」はしない。片手ですることもできるし、両手ですることもできる。
気の持つ力
両手でする時、両の手のひらを向かい合わせにすると、徐々に手と手との距離が離れる。無意識に脳がやっているかもしれないから確証は無いが、確かに気というものが持つ「力」を認識した。念動力とかそういう便利な力ではないが、私は力の存在を確信していた。「この力は誰にでも使えるのではないか?」とも考えていた。