「社内恋愛あり得ない」

外国の人が日本に来て驚いたこと上位10個

社内恋愛あり得ないという回答が、やけに印象に残っていた。これは日本と西洋の共同体、更には個人についての概念にかかわってくる。

日本と会社

先ずは個人の概念について。はっきり言って、この国の個人は自立した存在ではない。その人は共同体に依存している。立場に名前がついているのが証拠だ。

先輩/後輩

これらの言葉は、儒教の概念から来た。儒教とか朱子学などは、学校では江戸時代に幕府が広めたことになっている。しかし人口の90%以上を占める百姓は、そんなことなど全然気にしていなかった。権威を全く尊敬しない、性差別も今よりはない、人と人として接する文化があった。平等が、自由が、幸福があった。


それを破壊したのは明治政府だ。江戸時代にはそれなりの地位を築いていた穢多・非人*1の職を剥奪し、新平民という実質的な差別階級を用意した。それから、天皇を現人神として政府*2をその権力の執行者に据え、前近代の王権神授説的な論法で人々を洗脳した。


小学生に「天皇陛下万歳!」と言わせ、愛国心を刷り込む子ども用玩具を量産した。*3未だに天皇陛下万歳!と言ったり日の丸礼賛ソングを歌ったりしている人がいるのは気の毒だが、もうどうしようもないと思うので、どうしようもない。戦争で死ぬか、安倍の国家心中に付き合わされるのだろうが、私にはどうすることもできない。


本題に戻る。この国の文化は戦時中から何も変わっていない。ドイツは戦争から学び、二度と独裁者を生まないシステムを構築した。日本は学ばなかった。まあ、岸から安倍まで独裁が続くのだから、どうしようもなかったかもしれないが。*4


斯くして江戸時代の先進的な文化は死に、日本は前近代に戻った。悪い意味で。前近代にヒューマニズムなどない。この国の個人は、この国に依存している存在としてしか扱われない。だから、日本人にとって会社とは学校と同じようなもので、「行って当たり前」。*5日本人にとっての社内恋愛は、隣人と恋するようなものだろう。


個人というものは、会社から役職を与えられて初めて立つもの。そういう考え方が、日本人の根底にはある。だから上司だの部下だのという言葉があり、会社での立場はオフィスの外でも継続する。


個人は共同体に依存する存在である、という考え方が個人の独立性を否定し、地縁や血縁などに依存しない、独立した個人どうしの緩いつながりを阻害しているようにも考えられる。

西洋と会社

これは短く済む。西洋の人にとって会社とは、ただ単に利益を得るための場に過ぎない。個人の存在意義はそれに依存しない。個人は独立した存在として認められているからだ。人権教育が進んでいるのが大きな原因だろう。

勤務外の人間関係

これは興味深かった。海外ドラマでは、定時が来て会社を出ると上司と部下の立場にあった人たちが、友人のようにフランクな口調で話し合う場面があるそうだ。端的に言えば、これが「社内恋愛あり得ない」理由だ。


恐らく厳密に言えば、「社内での」恋愛はあり得ないだけで、勤務時間外での社員との恋愛はあり得るのだろう。つまり『会社』という場は個人的な事柄とは切り離された空間であり、そこに恋愛感情は介入しない。逆に言えば、会社でなければあり得る。


こういう文化では、独立した個人どうしの緩いつながりが発生する。つまり個人が孤立することがない。私は、孤独を悪いものだとは思わない。しかし孤立は問題だ。それは自殺の原因にも成りうる。


緩いつながりとは、地縁や血縁、金銭的な利害関係などに依存しない関係のことだ。日本で強いて言えば、学生時代の同級生などだろう。これは精神的な平穏をもたらす。実際に、フラストレーションが軽減されたという研究もある。人間の根源的な社会性を満たすのだろう。

*1:ユダヤ人的な

*2:また、軍人

*3:ナチスドイツの手法を真似たのかな?

*4:巧妙に、人々の関心が政治に向かないようになっているためそこまでがGHQの戦後改革だったのだ。

*5:学校に行って当然という考え方も狂っているが、ここではそれに触れない。