高校2年の手記

私は勉強を億劫に感じる。


(不死身の特攻兵―今を生きる君たちへ―という漫画で、軍では「自分」を一人称として使うことが義務だったと知った。下らない。(佐々木氏は、敢えて「私」を使った。)だから、一人称として「自分」を使うことは、恐らく劇的に少なくなる。)


高校2年生ではあるが、今まで一度も、「勉強」したことがない。高校受験は、夏休みの夏期講習や、学習塾(週7時間。月2、火3、金2。8時~)のみ。それ以外は全くしなかった。面倒だからだ。


定期考査も、全くしないか、その日の通学中、電車に乗っている15分や、直前の10分のみ、プリントを見た。幸い、IQが高いおかげで、欠点を取ったことはない。


いつも、そこそこ平均点が高いクラスで、ちょうど真ん中の成績を取る。(前回の中間考査では、41人中19位。)


勉強は、「強制されるもの」という印象がある。その上、つまらない。


数十年前のように、良い高校→良い大学→良い企業と行って安泰ではない。先ず、日本が戦争や小氷河期で危ういし、日本が大丈夫でも、株式会社の9割が10年後には倒産しているという研究もある。


「学習」ならすることがある。パンスヘルミア説は興味深い。固定観念が覆される瞬間は爽快だ。カミュの本を読むこともある。私の過去について熟考したこともある。


しかし、それらはすべて私が「やりたい」からやっている。大人に「やれ」と言われてやるのではない。それをやれば、明るい将来が約束されているからでもない。


本来はそういうのが「勉強」であって、そういう、本人がフラストレーションを感じることがない知的作業から、お金を稼ぐモデルが生まれるのでは?


先ず、「型」が先にあって、なぜか、その「型」通りに振る舞う=学校に行く、課題をやる のが当然、ということになっていて、それを少しでもはみ出ると、「不登校」だの、「社会不適合者」だのとレッテルを貼られる。


私は不登校でもゆたぼん信者でもないけれど、学校に行くという「慣習」は、いささか非合理的に思える。


(→過去記事  ワナゴの辞典 学校  へ。)


日本には、個人を「社会の歯車」と喩え、しかもそれを肯定的に用いる狂った慣習がある。いくら個性を削ぎ落とし、個を殺しても、F1で規格を揃えるようにして「歯車」を生産するには限界がある。


だから、私のようなうまく規格に嵌まらない「規格外」が出てくる。(優秀か否かは別。とりあえず規格外というだけ。)


正直、私は「規格」に嵌まることができる人が羨ましい。初めからこの社会に疑問を抱かなければ、サラリーマンとして働くことができるからだ。


今はもう、「規格合格」になりたいとは思わないけれど。(でも、人と違うから、人と違う生き方を模索する必要がある。これが大変。)


(TVアニメ、INGRESSは興味深かった。私と同じような、所謂「根暗」が主人公だからだ。)


結論。やりたいことをやる。(人が言う「安定した職業」は、「今はまだ大丈夫」だというだけ。10年後は、誰にもわからない。特に、変化の激しい今の時代では。


私は海外に移住するつもりだ。日本にいたら、この国と心中するようなもの。しかし、必ずしも移住が成功するとは限らない。失敗する可能性もある。


また、もし移住が成功したとしても、地球の気象は異常事態だ。地上で生活できるかわからない。


それなら、どうせ寿命を全うせずに死ぬなら、やりたいことをやってからの方が良い。


10年後、理不尽の中で死ぬかもしれない。そのとき、「みんなが」やったから勉強をしたとして、納得できるか?(勉強は、理不尽に対抗できない。)私はできない。


顔も知らない、どこかの誰かが作った「慣習」によってではなく、「自分がしたいから/したかったから」という理由によって下した選択の方が、後悔が無いだろう。)