三者面談録

今日、三者面談があった。


先生が左派だ(人として尊敬できる)から、面白い話を聞かせて貰った。


戦争を批判した教諭が「政治的中立性を欠く」として、懲戒免職されたらしい。


母は、「中立も何も、学校がめちゃめちゃ右に傾いてるのに…」と言った。自分も同意見だった。


先生は言った。「どこに基準を置く(どこを中立とする)かによって、違ってきますから…」基準が右なら、当然の批判すら「左」になる。


母はフェミニズム関係の運動をやっている。彼女は「ふぇみZINE」についての助言を、先生に問うた。


彼は、「週刊金曜日」を例に挙げて答えた。「あれも良いんですけどね~。薄い冊子に文字がいっぱいあって。でも中々拡がらない。内容は濃いのに。」


母は言った。「ちょっと文字が多い気がしますね~。私は活字中毒だから読むんですけど。」私も活字中毒だから読むが、普段本など読まない人は、あの文量に抵抗があるだろう。


議論の話になった。先生「生徒が海外に行ったら、向こうの議論に全然付いていけないらしいです。」そりゃそうだ。


学校で習わないし、日本には平等がないから、「議論」できない。「議論」とは、対等な関係にある(少なくとも、議論するときは対等であると仮定される)複数の人間同士による、コミュニケーションだからだ。


アメリカの大学生には、正負の足し算すらできない人がいるらしい。日本の大学生には、自分の考えや立場を持たず、議論などできない人がいる。


自分は、アメリカの方が良いと考える。どんなに数学が出来ても、幸せにはならない。どんなに優れた数学的能力を持っていても、それをどう使うかは結局、その人の「考え」によるものだからだ。


数学的能力が高い人は、トラブルを回避する能力が高く、トラブルを抱えても、それを解決する能力が高いらしい。「人生イージーモード」だとか。


しかし、それはあくまで「問題解決能力が高い」というだけのこと。それをどう使うかは、やはり当人次第。


(数学的能力が高い=論理的な思考を得意とする から、理系が考え始めたら凄いとは思うが、考え始めることがない。文系は記憶力が良いから、いろんな人の考え方を吸収したら凄そう。


というか、文系/理系という分け方はもう古い。「経済学とか、めっちゃ数学Ⅲ使うよ。」数学教師が言った。心理学でも、統計を頻用するらしい。地学では、地理の知識を使うこともある。)


話はLGBTQに移った。先生は言った。「この高校の子たちは意識は高いと思うけど、まだ認識が歪んでいますね~。


所謂、シスヘテロジェンダーの人と、性的マイノリティの人が分断されている。対等な一人の人間同士として接するのではなく、『ああいう人たちもいる。』という認識。」


いや、そもそも意識は低い。平気で「ホモ」とか「レズ」とか、差別用語を使う。


(自分は、「意識が~」という言葉が好きではない。LGBTQの権利を認めたら、「意識が高い」そんで、偉い?なぜ?人権派は、ファッションじゃない。


そもそも、「権利を認める」って何?人間に人間の権利を制限する権利などない。人として接されない状況が異常なのに、「同性婚についての議論」って何?たまに、陰謀論を持ち出してくる人がいる。人の尊厳を扱う分野で、都市伝説を引き合いに出さないで頂きたい。)


あとの話の内容は、まあ、一般論。進学については、親の年収と子の教育水準-つまり子の将来年収が比例している(年収は世襲制であり、当人の努力次第みたいに単純に自己責任論を振りかざすことはできない)ことを語った彼だったが、社会生活については自己責任論者であるらしい。