最低IQ200になって思うこと 学校教育は必要なのか

ワナゴは今、IQ200~になった。


集中できないときは、過去最高に危なっかしい。今までよりも凄い失敗をする。


只でさえIQ140で、尖っていたのに、更に尖った。


これでは、一般的な企業に就職することは、不可能だろう。


課題は、前の数倍苦痛になった。できる気がしない。退屈過ぎる。


努力して何とかなるならまだ良い。しかし、自分のこれはもう、どうしようもない。


ワナゴには、やりたいことが出来た。「緩い繋がりの再生」だ。


自殺者と、(自称)それを助ける人との間には、大きな溝がある。


自殺者は、もう消えてしまいたい。誰かに助けを求める気にならない。「無能の証明」がぴったり。


自称救う人は、「思春期は悩むよ。」とか、「考えすぎ」と言う。


思考を麻痺させて、強制的に思春期を殺した大人に、差別に敏な子どものことが、わかる訳がない。


挙げ句、自殺にまで自己責任論を持ち出す。「死んだら負け。」


もう、彼らには死んでもわからないだろうから、一回、「体験」してみたら良い。「やってみないとわからない。」お得意の自己責任論だろ?なぜ自殺をしないのか。


この世界は理不尽である。無神経な、鈍感な、声だけは大きい者が、無自覚の差別を垂れ流し、敏感な、声が小さ者が苦しむ。誰にも理解されずに死んでいく。


私は、「橋渡し」がしたい。


軽度ながら、自殺未遂を経験した者として、自殺に纏わる誤解を払拭したい。自殺する前の人と、緩い繋がりを持ちたい。(江戸時代にはあった。緩い繋がり。)


そして、その輪を少しずつ拡げて行きたい。


また、男尊女卑に気づかない日本の男・名誉男性と、フェミニストの溝を埋めたい。


全体主義に気づかないよき市民と、左派・ジャーナリストの溝も。


生産性による差別に気付かず、奴隷根性を発揮して自らの首を絞める会社員と、LGBTや障害を持つ人の溝も。


この社会は、分断がある。大きな分断だ。


画一化されたことによって、皆が皆、揃いも揃って似たような安倍擁護(どっちもどっち論を装う)。


何とかして、「である」文化を廃し、「する」文化へ移行する。そして独立した個人同士が、既存のコミュニティを超えて、緩い繋がりを持つ。その結果として、思想も多様性を取り戻す。


これがやりたい。


先ずは、ニューラルネットワークを用いて、様々な「偏見」を持つAIをつくる。また、偏見を持たないAIをつくる。そして、「偏見」AIに偏見を持たないAIが理解できるかを試行する。とか


生存本能と防衛本能を与えた上で、偏見や差別に汚染させ、希死念慮や自殺願望発生を、科学的に検証したい。


(できれば、劣等感、優越感、抑圧、反動形成、目的論など、自殺に関わる因子も入力しながら。)


そして、何を抜けば自殺願望が消えるのかも検証したい。


一体、これらに世界史の、地学の、古文の、知識を使うのかどうか。


宿題には何の学習効果もないことは、既に証明された。


奴隷根性を育むには良いかもしれない。自殺者も増えるだろう。「お上」にとっては都合が良い。


自分のための学習とは何か。今、一番のそれは、数学と哲学である。


幸い、IQなら異常に高い。今は、否定的ではない意味で、自分は「死に損ない」だと言える。


自分は死に損なって、IQが80くらい上がった。やることは一つ。社会を変える。