ワナゴの辞典 平等

形式的平等と実質的平等の違いは何だ?


1からこれを考えると、疲れる。基本的には、別役実がその著書、「当世悪魔の辞典」に記した言葉に集約されている。


「ライオンにもウサギにも同じキャベツを与えるのが間違った平等である。ライオンには肉を、ウサギにはキャベツを与えるのが、正しい平等である。」(一部加筆)


ここで言う「間違った/正しい」は、「形式的/実質的」に置き換えていいだろう。これは的を射ている。


つまり、「それを受けとる側」にとって平等であるのが実質的平等、「それを与える側」にとって平等であるのが、形式的平等と言える。


(何のためにわざわざ、「平等」を達成するための措置があるのかを考えれば、どちらが良いかは、言うまでもない。)


また、「間違った平等」は「正しい平等」とは前提とするものが異なる。


前者は、なぜか万物、万人が初めから無条件で平等である、という仮定が前提となっている。ゲームのしすぎ?この永遠に正しいことが検証されることの無い仮定は、なぜか多くの人を汚染している。


「不平等などない」のだから、それを是正する必要もない。ライオンにもウサギにも、同じキャベツで良いのだ。


(ライオンとウサギなら、間違っていることが明確にわかるのに、少し複雑になっただけで、ものの見事に多くの人が、この暴論に騙される。)


この宗教は、主にマジョリティーを中心として、多くの熱狂的な信者を獲得している。(「信じれば何も考えなくていい」という点において、自己責任論は宗教である。)


この、信者の属性(強者男性。シスヘテロジェンダーか、自称トランス女性。くたばれ協会!の例のあの人たち)を見ても、男尊女卑などの差別を無視する自己責任論は、それを支持する人の原罪意識をごまかすためのものだと言えよう。


本題に戻る。同じキャベツを与えられる相手はウサギだけであり、しかも個体差があるから同じウサギにも、与えるキャベツの量を調節する必要がある。にもかかわらず、ライオンに同じキャベツを与えるのは、いささか非合理的である。


これは、「他人の目を意識した行為」である。そもそも、今流行っている新興宗教(正確には、明治維新のときに初めて日本で台頭し、第一次自民党政権以降、再び勢力を拡大している宗教)である自己責任論は、全体主義ファシズムを前提とする。


ファシズム-結束主義 自体は、稲作をしていた、農村のムラ社会(部落共同体意識が強い)との相性が良いから、ずっと昔からあった。


(哲学はファッションではない。最近では、やたらと「ムラ社会って言ってりゃ、哲学者なんでしょ?」みたいな人が多い気がする。)


しかし全体主義が台頭したのは、明治時代が初めてだろう。


(よく、江戸時代のことを「中央集権国家」、明治時代のことを庶民は江戸より自由だと言う人がいる。しかし、江戸時代、庶民は自由に暮らしていた。幕府なんか気にせず。


人口の九割を占める百姓は十干十二支を使っていた。幕府は一応、元号を定めたが、そんなのを誰も気にしなかった。「幕府の中央集権ごっこ」と言っても良い。平和な時代だった。


政府が定めた元号なんかを庶民が使い始めたのは、明治時代からだ。戦前から、天皇(たまたま天皇ん家に生まれただけの、只の人間)が「時間」を支配する象徴として、元号の使用を政府が強制し始めたからだ。


同時期に、西洋から男尊女卑や自己責任論、生産性による差別などが輸入された。それによって、260年続いた平等は、ものの数十年で崩壊した。)


本題に戻る。少なくとも、同じことをしていれば、その人と同じような阿呆には「自分が」人に平等にしているよ、と主張することができる。


「相手にとって」実質的に平等でなくて構わない。「自分が」平等に見られさえすればそれでいい。自己責任論はやはり、そういう冷淡な性格を持つ。


全体主義とは、「皆のために」とは言うものの、なぜ「皆のために」と言うのかといえば、それは自分自身が、「皆」という範囲から逸脱しないためである。


「皆のために」という言葉は、全体主義であると同時に、個人主義(自己防衛的)でもある。


独立した個人どうしの、平等で自由な、何の利害関係もない緩いつながりが、分断されている。個人が孤立している。それが、全体主義の本質である。


(全く、よく出来ている。沖縄の基地反対の選挙でわかったように、いくら不正選挙をすると言っても限界がある。(結局、「外交問題は国の管轄だから」とか言って選挙を無視したけれど。)


独裁者は何より、団結されることを恐れている。いくら期日前投票で不正選挙しても、用意できる票の数には限りがあるからだ。


だから、個人を孤立させ、団結できないようにしたらしい。その取り組みは功を奏した。人々は更に右傾化し、全体主義は加速した。)


(私は、「孤独」が好きだ。一生、寝るまで一秒たりとも一人になれない人生と、一生を一人で過ごす人生なら、間違いなく後者を選ぶだろう。


だから、「孤独」は悪いとは思わない。私のように、社会とのつながりを極端に嫌う人もいる。しかし、「孤立」は問題だ。


2つの違いは、「自らの意志で一人を選んだ」か、「否応なしに一人にさせられた」かの違いだろう。後者には選択の余地がない。)