興味深い傾向 ジェンダーからの解放へ向かう?

私はアニメヲタクである。否、「だった」、と言うべきか。


私が自殺という死の淵から奇跡的に生還※※した、私が※「夜明け」と呼ぶあの出来事以来、嗜好がすっかり変わってしまった。


(※※今でも未だ、死を思うことはあるが、メタ認知できるようになったお陰で、幾分か楽だ。※長い長い長い夜が終わった実感があったから。今度は3日ほど前から、5~6時間しか眠れない上に「寝た気がしない」という、新しい「夜」が来た。まあ、明けるといいね。)


今では殆んどアニメを見ない。毎日、最低でも一つは深夜帯のアニメを見ていた頃の、2ヶ月前の自分からすると、もうヲタクではない?


今では、観るのは「進撃の巨人」くらいだ。それも終わってしまった。(シーズン4終了)今はたまに、カミュの「シューシュポスの神話」を読む。


しかし、自信を持って「私はアニメヲタクである」と自称することができたとき、ある違和感を感じていた。違和感というか、疑問?


2ちゃんねるに群がる「よき市民」、通称百合厨は、圧倒的に男が多い。それに対して、所謂「腐女子」には圧倒的に女性が多い。


異性のみによって展開していた物語に、同性が登場したときの反応もまた、興味深い。


私はたつき信者であるため、さらっと宣伝をしておく。宣伝効果が低いことは気にしない。


2019年春期アニメ「ケムリクサ」に、その登場人物「わかば」が登場したとき、観衆はヘイトに呑まれそうになった。(後に、10話くらいでやっと、彼がケムリクサに必要不可欠な人物であることが認識された。)


それまでは「りなちゃん可愛い」とか「りなちゃん可愛い」とか「りなちゃん可愛い」とか言っていたヲタクたちが、「男が出た!殺せ」と騒然としたのである。


所謂「腐女子」についてもこれは同様で、彼女らは言わせると、「もう、女は出てきてくれるなって感じです。」だそう。


私もまた、嘗てのアニメヲタク(今でもたぶんオタク)の身として、何か「citrus」とかに男が出てきた嫌だな、とは思う。なぜ?私なりに考えてみた。


「百合は天使」という言葉がある。「BLは心の自慰」という言葉がある。「百合アニメ」又は「BL」では、ジェンダーが強調されている。


大抵、多くの百合アニメでは、女性の目はあり得ないほど巨大で、近年稀に見る低身長で、いかにもアニメ声というような高い声で、「きゃっきゃうふふ」としている。


(まともに女性を描いて、ドロッドロの人間関係を提供してくれたのは、私の知る限りでは「やがて君になる」のみ。小糸さんの声は、友人が聞いても、「声優さんの素の声」だというのだから驚き。)


一方、BLもまた、男性はあり得ないくらい美形で、日本で稀に見る高身長で、揃いも揃ってイケメンボイスで、「男らしい」。


長ったらしい退屈な考察は不要。結論から言う。


「男尊女卑がある(男に男らしさ、女に女らしさを強いる文化の)国では、抑圧された「いち人間」としての欲求は、ジェンダーからの解放に向かう。


(海外の履歴書には性別欄が無い。性別欄がある異常な国は日本くらい。性別欄があるということは、「性別によって評価が変わる(性別が一つの評価基準である)」証拠。


「女は出産して会社を辞めるんでしょ?」「男は過労死するまで働くんでしょ?」そういう差別がある証拠。


日本に男尊女卑があることに、疑う余地はない。それがわからない、或いはそれを知らない人は、お引き取りください。たぶん、そういうあなたには、この理論は理解できない。)


まず、「らしさ」とは何か?「感情/主体性」という軸で、大まかに説明する。


「男は冷静且つ論理的/女は感情的且つ非論理的」これは明らかに誤りである。


(女性が自然で、男が感情を殺してしまっただけ。また、感情的 と論理的 は必ずしも互いに真ではない。この俗説の言葉を借りるなら、「男は感情を見失った只のニューラルネットワーク/女は自然体且つ論理的」なのである。)


しかし、この俗説が跋扈しているお陰で、男は感情を抑圧することを学ぶ。機械みたいに無機質なのが、「男らしい」そうだから。


女は感情を共有することを学ぶ。(女は感情的、ということになっているから。)それが、こんな、女性に明るい将来など無いこの国で唯一、ヘテロ男性である私が女性を羨む要素でもある。


次に、「主体性」について。


なぜか、例によって花婿が、例によって花嫁の父親に、「お義父さん、娘さんを下さい。」と言う。


なぜか家事育児が女性の義務・責任になっているこの国で、「娘さん」と最も長い時間を過ごしたのは、恐らくお義母さんなのに。過酷な無賃労働を強いられることになるのは、恐らく「娘さん」なのに。


にもかかわらず、女性には婚約を申し込む/許可する権利がない。


(日本国憲法に、婚姻は二人の合意に基づく、とあるのに、未だに親に許可を取りに行くのは、いささか奇妙な慣習である。「娘さん」の所有権は「お義父さん」にあるの?女性はモノなの?日本って、やっぱり形式的な先進国だな。)


「据え膳食わぬは男の恥」という言葉がある。情交における主体性(主導権)もまた、男にのみあるらしい。


まとめ
・男/女は感情を抑圧/共有することを学ぶ。
・男は能動的、女は受動的、ということになっている。


これによって、あの奇妙な違和感にも説明がつく。


百合アニメでは、下らないことに一喜一憂し、それを共有して、きゃっきゃうふふする美少女たちが描かれている。いかにも、「男の妄想の中の女」である。「女は感情的」で、「感情を共有する」からだ。(お察しの通り、筆者はやが君やcitrus以外の百合アニメが嫌いである。つまらないから。)


BLには、眉目秀麗、筋骨隆々といった言葉が似合う、男らしい男が出てくる。いかにも、「女の理想の男」である。また、感情描写は淡白である。「男は感情を抑圧する」からだ。


次に、性的描写について。(少し私見が入るので注意。)(攻めとか受けとかの用語は…ggrk)


百合アニメでは、まあ、攻め側の描写は淡白で、わりと受け側の描写に手厚い。「あっイヤッだめぇ…そこはぁ…」みたいな感じで、受けの反応が強調されている。


BLでは、まあ、受けの描写も多いかもしれないが、攻め側の、明確な「好意」が強調されている。(そして、「行為」へ…すいません、ほんの出来心だったんです。予測変換で出てきて、つい…)「あの人、めちゃくちゃ俺のこと(が)好きじゃないか」みたいな感じで。


これは大きな差である。百合を好む男は、未だジェンダーから解放されていない。だから、自身が「男」の状態のまま、「受け」になることに抵抗がある。


しかし、抑圧された感情や、「愛する(=抱く)」ことしか許されない文化によって蓄積された、「愛されたい」という欲求は消えない。それは必ず、どこかに表れる。


痛みは快楽に変わる。だから快楽を求める男性は辛いものを食べたり、女王様に叩いて貰いに行ったりする。ヲタクは、それがたまたま、「人間関係」だったというだけ。


恐らく百合アニメを(特にエッチシーンを)見ているとき男は、「受け」側に自身を投影している。(特に、現実社会で「男らしい」と言われるような人ほど。)


(逆に、「男らしくない」自分に劣等感を抱いている人間は、「男らしく」据え膳を食うことができる、攻め側に自身を投影しているかもしれない。百合を見て自慰する人は、恐らくこのタイプだろう。)


そして同じく、BLを嗜む女性もまた、ジェンダーから解放されていない。だから、自身が「女」の状態のまま、「攻め」になることに抵抗がある。


しかし、無理して感情的な女を演じたことによって、感情は麻痺してゆく。どれが本当の自分の感情なのか、見失い始める。だから、より一層、抑圧された「愛したい」という欲求は肥大化する。


恐らくBLを(とくにエッチシーンを)見ているとき女性は、「攻め」側に自身を投影している。(特に、現実社会で「女らしい」と言われるような人ほど。)


(逆に、「女らしくない」ことに劣等感を抱いている人間は、「女らしく」攻めを受け入れる、受け側に自身を投影しているかもしれない。SMプレイのM側をやる人は、このタイプだろう。


しかし、女性でこのタイプは珍しい印象がある。男と同じように、「らしくない」自分に劣等感を抱えている人でも、知識人故の反骨精神のなせるわざなのか、自ら進んで「女らしくない」自分を主張する人がいる。彼女は言う。「腐女子なんて、中身は只のエロおやじですよ。」)


かなり長い記事になった。ほとんど趣味のような感じで、好き勝手やっているこのブログだが、ここまでたどり着いた猛者には敬意を払おう。


こんな長い文章を最後まで読んでくれて、ありがとう。


ここまで私のミームに汚染されれば、私の言いたいこともわかるかも?


「百合厨は気持ち悪い。」「腐女子は気持ち悪い。」ではなく、彼ら彼女らがどんな背景を抱えているのか、考えてみるのも面白い。


あなたなりの見解を得たとき、世界はそれまでとはほんの少しだけ、違って見えてくるだろう。


このブログには他にも、「卑屈/ワナゴの辞典」や考察系記事など、あなたの考え方をちょっと変えるかもしれない記事がある。


殆んど自分用の記録としてやっているこのブログだが、そんなものでも、他の誰かの退屈しのぎになるなら、それはそれで構わない。