ワナゴの辞典 Parkour

筆者が最近(4~5ヶ月ほど前から)始めた趣味。


広く「free run 」とは違うものであると誤解されている。


(「parkourは只の洗練された移動手段。freerunはチャラい。派手。恰好良い。」のような誤解。「正確には、「parkourは、その発祥の地・フランスで使われている言葉。freerunは、それを世界(主に英語圏)に広めるために考え出された言葉。」)


(筆者は片仮名英語を厭う人間である。parkourは正確にはフランス語であるから、英語では発音することができない。また、「free run」の発音は「ふりいらん」ではない。だから本来の文字通りに表記している。)


私の書き方からわかるように、私は「アクロバット」系の技を厭っていた。不必要に恰好だけは良くて、何の役にも立たない代物であるから、と。


しかし、私の考え方は少し変わった。私はそれまで、parkourを「只の移動手段」であると認識していた。


確かに、目的地に最短距離を通って到達するときのあの、洗練された動きは美しい。それに私は、恰好だけ良いデザインよりも、機能性を重視する人間である。(所謂、「機能美」とか。)それにアクロバットは、必要性が感じられなかったからやる気が湧かなかった。


しかし、私がparkourを始めてから2ヶ月ほど経ったとき、髪を前よりも短く切ることができた。(以前は、「自分はそういう人間ではない。」だとか、訳のわからない自意識のせいで、できなかったことだ。)


5ヶ月以上経った今、私は坊主頭である。(7mmくらい?)ずっと坊主にしたかった。理由は、髪を洗うのが面倒だからだ。


また、私は中途半端に癖っ毛である上に、髪が早く伸びる毛量も多い。だから、髪は面倒だった。次は、0mm?の丸坊主にしようと思う。


私の哲学は何ら変わった訳ではない。只単に、「前より少しだけ、parkourが得意になった。」只それだけ。


つまり、「物理的な移動手段の自由度の向上(端的に言えば、行けるところが増えたこと)」が、「精神的な自己決定における選択の自由度(何をするのかを決める、その範囲)」が大きくなった。


これは興味深いと感じて、また更なる自由を求めて、私はparkour(freerun)を続けている。


三メートルくらいの壁なら、軽く越えられるようになった。(「壁」は人生における障害を象徴するものでもある。これにも何か付加効果がある?)


この記事を読んで、興味を持った人は是非とも、始めてみては?まあ、この記事を読む人の母数は多くないだろうけれど。


(実を言うとこれは、parkour(freerun)は協議人口が少ないから、啓発として書いた記事でもある。その影響力は考えない。


くれぐれも、公共の場でのマナーは考えてください…parkourは自由度が高いが、マナーがない訳ではない。いろいろ問題が起きて、「この公園ではparkour禁止」になったら、たまったものではない。)