自殺願望

私が経験した日常

多くの「自殺予防」の傲り

意外と厚労省のホームページは良かったが、誤った価値観に基づいていることが殆んどである。

そもそも自殺志願者は自殺予防ホームページを見るのか

これは何とも言えないので、私の経験から言わせて貰う。先ず、見ない。その理由は2つある。1つは、それに助けを求めたところで、どうにもならないと考えているからだ。


自殺は突発的に起きるように思えるかもしれないが、殆んどの場合は長期的な要因が複雑に絡み合っている。そのため、1日や2日自殺予防ホームページを見たところで、どうすることもできないように感じるのだ。実際、私もそういうホームページは見なかった。


もう1つは、そんな無意味なことに割く体力など無いからだ。自殺志願者はそれだけで消耗し切っている。また、睡眠不足や不眠症が重なることもあり、この場合の疲弊は深刻だ。私の場合は睡眠不足が重なった。


これらの根拠から、自殺志願者がそういうホームページを見ることは、無い可能性が高いと言える。よほど信頼している人や、親しい人から薦められない限り、殆んど見ないかもしれない。

自殺未遂未経験者が、自殺を止めることの傲り

自殺未遂を経験したことが無い人が、自殺を止めることを無責任だとは思わない。それは寧ろ、責任ある行為だと思う。だが、自殺未遂を経験した人間とそうでない人には、想像力では埋めることができない、圧倒的な溝があることを忘れてはならない。

うつ病

これは、自殺志願者が患っている可能性が高い病気だ。

https://otonanswer.jp/post/13608/3/

この記事には、うつ病患者にとっての「死にたい」は「からあげ食べたい」に近いことが書いてある。


多くの人には、あまり馴染みが無い感覚だろう。このように、自殺未遂を経験していない人が自殺未遂を経験した人を理解するのは難しい。あまりにも大きな溝があるからだ。

残念な自殺予防ホームページの例

「あなたは一人じゃない」

で?自殺には、全体主義的な文化が影響していることもある。また、根本的な原因は孤立ではない。「あなたは一人じゃない」だのと言えば、自殺志願者が救われるなどと勘違いしている人は、自殺を軽視し過ぎている。そんなことで、どうにかなる問題ではない。*1

「新しいことを始めてみよう」

これも先述した通り、そんな余力はない。また、退屈な日常が自殺の原因だと勘違いしている人も、認識が甘すぎる。確かに、「代わり映えしない日常」とか自殺志願者が言っていることがあるため、勘違いしてしまうのも無理はないとは思うが、やはりそれは症状なのであって、原因ではない。

「今はその悩みが全てであるように感じるかもしれないけど、後になってみれば小さなものだったと思うよ!」

これは本当によく目にする、本当に薄気味悪い暴言だ。2つの点において、何もわかっていない。

理由①「お前の悩みなんて大したものではない」

この言葉と同義だからである。「貧困や紛争に苦しんで、もっと大変な人もいる」と同類だ。この言葉にも問題がある。それは個人の不幸に注目していないことだ。


そんなことを言ったら、貧困層の人たちや紛争地域の人たちの不幸にもグラデーションがあるため、貧困層や紛争に苦しめられている人も「もっと貧しい/危険な地域に住んでいる人もいる」と糾弾されてしまう。*2


こういうことしか言えない人たちには、ある心理が見え隠れしている。「あんたは私より楽でしょ/俺の方が、お前より辛い」そういう心理である。しかしそれをそのまま言っても受け入れられないので、未成熟な社会では通用する誤った論法を持ち出すのだ。*3

理由②「後」なんて知らない

「後になれば~」と言われても、今以上に良くなっている未来を想像することはできなかった。うつ病患者の「未来や結果の楽観視」という、多くの人が備え、フラストレーションを軽減させる機能が上手く働いていない。


だから「明日は明日の風が吹く」とか、「明けない夜はない」なんて言葉を、安易に信じることができない。「明日も、変わらず今日の風が吹いているかもしれない。」「この夜は明けないかもしれない。」そう思うのだ。


また、後などではなく今、死を選びそうなのに、後がどうこう言われても困惑してしまう。明日には死んでいるかもしれない。真面目にそう考えていた。*4

殆んどの人は、それが普通だと思っている

多くの人は、自殺願望の只中にいる時、その危険性に気付いていない。私もそうだったし、恐らく殆んどの人も同じように思う。「自殺願望があるから危ない!どうしよう」なんて悩んでいる人は少数だろう。


私のように、無意識に自殺しそうになる*5こともあれば、から揚げの人のように、無意識に自殺へ思考のベクトルが向くこともある。どちらにせよ、自殺願望を抱えていたことを、客観的に「過去の経験」と捉えることができるようになって初めて、それが危機だったと気付いた。


そもそも、自殺願望がある人に「自殺予防ホームページ」を見て貰うのは難しいだろう。それが山ほどあったとしても、だ。*6自殺を個人が抱える「問題」と定義した時、先ずそれに当事者が気付かない。*7だから、その問題が解決されることは少ない。当然、差別的で不寛容な、全体主義が蔓延る社会は変わらない。

この記事を作成した理由

いつもに増して長ったらしい記事を書いた理由、それはステレオタイプと自殺願望を持つ人*8との間に、あまりにも深い溝があるからだ。嘗ての自殺志願者であり、今は前よりは死から遠くなった私なら、自殺志願者に理解がない社会と、自殺志願者との橋渡しができるかもしれないと考え、この記事を作った。大きな影響力はなくても構わない。この長い記事を最後まで読んでくれたあなたに、「へー、そうなんだー」と思って貰うことができれば、それだけでこの記事を作った意味がある。

*1:『ある世捨て人の物語』“The stranger in the woods”にも書いてあるが、集団そのものが個人を苦しめる原因であることもしばしば。そんな人に向かって「あなたはもう、我々共同体の一員なのです!」と言うのは無神経というか、多数派で加害者であるという自覚を欠いている。それはつまり、「お前は集団に馴染めないはみ出し者だったんだ!俺に矯正して貰ったんだから感謝しろよ」と言っているのと同じである。LGBT矯正手術や皇民化と同じ、おぞましいものだ。「多数派に加わることができて良かったね!」みたいな、寒気がする悪意なのである。

*2:何も言われないのは最も不幸な人だが、何を以て不幸とするのかという基準は千差万別であるから、あるところでは糾弾されている人も、ある基準では最不幸であることがある。そもそも、この論法は破綻しているのだ。

*3:こういう、「自分の方が辛い」みたいなことを言う人には、自殺志願者の苦しみは1ミクロンも理解できないだろう。自殺志願者は、「辛い」という自身のSOSを圧し殺して、「自分より辛い人もたくさんいるんだから、もっと頑張らなければ…」と自分に言い聞かせている人が殆んどだからだ。だから自殺まですることが多い。私もそうだった。

*4:しかも、恐らく自殺というのは「確固たる意志を持って死ぬ!」ではなくて「認識することもできないほど、大きな何かが私を自殺させる」という感覚なのだ。それは唐突に、自身の意志には関係なく起こる。そういう感覚。だから、踏切の降りた線路に吸い寄せられそうになる。だから、いつの間にか首筋にナイフを当てている。

*5:死神に手招きされているように思えた。自殺は「個人の意思による行為」ではなく、「自然現象と同じような、ある一つの現象」であると感じた。

*6:自殺には社会や文化が大きく関わるため、本当はこう定義したくはないが、

*7:部外者が、うるさく議論しているだけだ。

*8:文字数などの都合で自殺志願者とか、自殺願望を抱えた人と入力しているが、本当はこう書きたくはない。これらの言葉を作ったのは、恐らく自殺というものを味わったことがない人間だからだ。特に「自殺志願者」なんて言葉は。本当は「死にたい」んじゃない。「生きたくない」んだ。「消えたい」のである。